物質と記憶

先日、会いたい人に会うために学術会議のイベントに赴いた。

発達保育関連のイベントで会いたい人にも会うことは出来たのだけど互いに忙しくお話しする余裕もなかったのは残念。

次の機会を待ちたいと思う。

その足で本郷の法文1号館に行くと、今週は現象学の大会だった。

なんとか最終日の最後の企画であるシンポジウムに潜り込んだら興味深い話をやってるではないか。

別の会場ではケアの現象学に関わる発表をやっていてそちらも見たかったのだけどレジメだけ貰って後で検討することにした。

私が潜り込んだ会場の「他者の感情はみえるのか?」は今後私も検討したいテーマだと感じたが、取り敢えずこの興味深い話をしている面々のプロフィールを確認する。

國領さんと源河さん、山田さんと横山さんらのプロフィールや研究テーマを確認すると面白そうなテーマが沢山浮上してくる。

「他者の感情の直接知覚」という今回のテーマは「感情移入と共感の違い」なんて面白そうな区別とも関連して自分の周囲の事例を考えてみたが、例えば電車の中で十代の女の子がシートに腰掛けながら涙を流していて次の駅で下車して走り去ってしまったとき、私も「ああ、彼女も失恋したんだな、でも人間なんていつか立ち直れるから頑張れ!」なんて自分の失恋体験を想起して心の中で応援したりしたことを思い出したけど、もしかしたらあれは単に自分の経験を思い出しただけで彼女は親が危篤だったのかも知れないし、試験に不合格だったのかも知れないと考えてみた。

すると、この場合の私の共感?は自分の経験の思い起こしからくる推測であって彼女の感情を直接には知覚できてないのではないだろうか?なんてことも考えた。

すると、このシンポジウムの初めの眼目であった理論的知覚でもシミュレーション的な知覚でもなく直接知覚というのは果たして…?という考察の余地が自らの中に生じてきた…。

それは兎も角、質問者である東北大学の村山達也さんが何だか私の心に残り、「私は分析哲学現象学も専門ではなく、ベルクソニアンなんですけどね」という氏の言葉に従ってベルクソンについて調べ始めたら『物質と記憶』という私でもタイトルくらいは聞いたことのある書名に辿り着いた。

なんでもこの本はデカルト由来の心身二元論を発展させた論を説いているが難解らしいとの噂のままに「そのうち読んでやろう」と心に決めた。

心身二元論というのは最近似たようなことを別の場所で思索したのだが、私自身の今現在の考えをメモしておくと、多分「唯物論」ではないと思うし、かといって恐らくは「心身二元論」でも無いのかも知れない。

多分、思考や心は脳から離れて存在はしないと思うけど、その脳の物質面での活動からのみ見れば観念や精神は芋づる式に把握できるとは思えないから「唯物」では無いと思っていて、私の考えでは「物質面」として観察されることと「観念面、精神面」として観察されることとを「合わせていく、統合していく」ものだと思うから英語で言ったら「uni-、unity」なんだと考える。英語の「uni」の語源はラテン語の「unus」で「to one一つにする」という意味だそうで、それは「存在論」というよりも「認識論」の領域で「一つとは認識されないものを一つに合わせていく」ことだと考えた。それは「唯物論」というより「統一論、統合論」と呼ぶべきものではないか?

そうするとやはり、「唯物論」のような客観的な非生命体である存在が時系列で進化発展して生物となり人間となり観念が生まれたというような「存在論」を中心とした系統になるよりもデカルトの「我」という自己意識から始まって外界を認識していくという観念の外界化=「認識論」というふうな所に収まるのかも知れない。

そうしたデカルト的な?「我」から始めたなら自己を中心として身近な所から外界の理解が広がっていくということで人間の観念=乳幼児の観念は先ずは物質的でなくお母さんやお父さんとの間の人間的・精神的な関わりとして始まるわけだから、古代日本の精霊信仰も原初の体験である観念的・精神的な世界を自然の野山や河川にまで拡張したのだと得心いきやすいのだと考えられた。

 

 

つづく