生活過程

久方ぶりに「生活過程」という言葉を目にした。

この「生活過程」という言葉は恐らくは十代の頃から目にしている言葉だが、時として意表を突いたところで用いられているのに遭遇して困惑するときがある。

それで現代の発達したネットで検索してみると「生活過程」という言葉が用いられている最たるは「看護」という分野らしい。

それは私にとって大いに腑に落ちるものだった。

元々は「生活」という言葉があるのだから、朝起きて歯を磨き食事してから会社で働き、アフター5に同僚と飲みに行き、深夜帰宅してから嫁さんに怒られた、なんて時々刻々変化していく生活の有り様が無前提的=即自的に「生活過程」なのではなく、例えば罹患から回復までの病床での点滴生活からギプスを装着しての車椅子へ、そこから松葉杖での歩行に移りリハビリの筋力補強運動へ、といった平常の社会復帰へ向けての一時的な過渡期の生活の連続を「生活過程」と捉えるのだろう、と納得が行った次第。

それならば栄養価を極度に控えた不味い病院食も永久に続くわけではない「過程」の食事だと理解できる。

看護師さんから尿瓶で排泄補助をうける情けなさも味気ない寝たきり生活も、飲酒を禁止され苦しいリハビリに臨まねばならぬ日々も、いつまでも続くわけではない、退院までの一時の過程だと割り切れれば気持ちは楽にもなれる。

おそらく看護師の看護過程と患者の生活過程とは表裏一体のものだろうが、一体いつからかような考えや用語が成立したのか、看護の古典を紐解く余裕ができたなら調べてみたく思う。

したがって健康な人間が健康を維持するための普遍的な栄養価(たんぱく質や炭水化物、脂質やビタミン、ミネラル)を恒久的に摂取すべきだという普遍的な考えを「生活過程を整えること」だと考えている論者は言葉の使用が適切ではないのだと私には映る。

大体がサンルームの設計など太陽が東から昇って西に沈むという大雑把な規則的な現象理解と周囲の高層建造物への配慮さえあれば「地球と太陽との天体軌道のモデル」などといった大袈裟なところまで話を結び付ける必要などない。

それをサンルームの設計と地動説/天動説の話に結び付けたとしたならば「間違っている学説でもどこかしら役に立つところはあるはずだ」という一般性から牽強附会に「そこに含まれている経験的な事実」が役に立つことと「天動説であるがゆえ」と摩り替えて「天動説でも地動説でも無く全動説・両動説」に行こうとしない「天動説の名を借りた三浦の擁護」という欺きなのであろう。