トゥキディデスの罠

学校に行く前に軽く腹ごしらえしようと食卓に向かいながらテレビのリモコンをオンにしたら偶然に「トゥキディデスの罠」というタイトルが目に飛び込んできた。

テレビ朝日の「大下容子の『ワイド!スクランブル』」という番組だったが「トゥキデディスの罠」という魅惑的なテーマを解説しているのは池上彰さんと増田ユリヤさん。

確認したら、この二人で共著を何冊か出してるみたいだった。そちらも面白そうだから懐が暖かいときに読んでみよう。

それで肝心の「トゥキディデスの罠」というのはアメリカの政治学者グレアム・アリソンの本に出てくる言葉で古代ギリシャの歴史家トゥキディデスが記録したペロポネソス戦争の如くに覇権国と新興国とは大戦争になるのが必然的だと考えてしまう「罠」ということのようだった。

そのペロポネソス戦争の当時のアテネとスパルタの如き関係は歴史上いくらもあったが、例えば冷戦時のアメリカとソ連キューバ危機であわや核戦争!となりかけたとき、ケネディ大統領とフルシチョフ首相が書簡のやり取りをしてそれを回避したという「歴史は繰り返さない」事例だということみたいで。

グレアム・アリソンの著書には『決定の本質~キューバ ミサイル危機の分析』だとか『米中戦争前夜~新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ』という魅惑的なのがあるみたいなので読んでおきたい。

それこそ「決定論」を否定した「自由」の歴史、「意志決定」という歴史の核心部分が説かれている気がしてならない。

「規範」ではなく「生きた意志決定」が政治や国家の核心にくるように思われるのだ。

 

ボリス・オレヴォイ

ふとしたキッカケで随分と昔に購入したベ・ポレヴォーイの『真実の人間の物語』のことを思い出した。

この本は十代のときに随分と影響されたN郷さんの『武道修行の道』で紹介されていたので二十代前半に古本屋で購入したもので、今でも自宅のどこかに有るはずだが、どこに紛れたのか本の山に溢れた書斎で探し出すことが出来なかった。

でも、どこかには有るはずだ。気休めというわけでも無いがネットで作者のポレヴォーイを調べ始めた。

30年前にN郷さんに影響されて購入したときは『真実の人間の物語』という作品の内容にばかり興味が向いていたのだが、今はポレヴォーイという作者への関心が大きく私を突き動かす。

今あらためてネットで検索すると、『真実の人間の物語』を書いたポレヴォーイは正確には「Boris Olevoi」だとか「Boris Polevoi」と表記され、青銅選書の「ベ・ポレヴォーイ」の「ベ・」というのが「ボリス」だったことが理解される。

その「ボリス・ポレヴォーイ」は英語版のウィキペディアでは「Boris Polevoy(Boris Nikolaevich Polevoy)」で検索でき、1908年生まれで1981年没のロシアの作家で、この『真実の人間の物語』は第二次世界大戦のときのソヴィエト連邦の戦闘機パイロットであったアレクセイ・ペトロビッチ・メレーシェフを描いたものだと理解できる。

もう少し詳しくは1942年3月にメレーシェフが撃墜されたという東部国境の空中戦というのはウィキペディアで「独ソ戦」で検索できる、ソヴィエト国内では「大祖国戦」とロシア・ナショナリズムで国民を鼓舞しようとした戦いだったことが改めて印象的だ。

この「独ソ戦」、戦争指導者で見るならば「ヒトラーvsスターリン」であり、国家イデオロギーで見るならば「ナチズム(ファシズム)vs共産主義(マルクス主義専制国家)」で令和元年の現在から眺めたならば「どちらが正しかったのかは、何だかな~?」なわけだけど、ポレヴォーイが『真実の人間の物語』を書いた1948年(昭和23年)当時のソヴィエト連邦の視座に立つならばニュルンベルク裁判でドイツの戦争犯罪が国際的に決定づけられ、尚かつ未だスターリン批判も為されていない状況下でポレヴォーイが描き出したアレクセイ・メレーシェフの行動は紛れもなく「ナチス・ドイツを倒し、ファシズムの魔の手から共産主義を守らんとする大義名分=国際的な正義感にかられたもの」であって単なる干からびた「人間の努力」ではない。

N郷さんが自らの著書に書いていた如く「何かをサボる人間は特定の何かをサボるのであって全てをサボるということはできない」わけだから、このアレクセイ・メレーシェフの行動を一般的・抽象的な「人間の努力」というところに落とし込むことは文学作品の面白さのツボを外して読むが如き戯けだとしか思われない。

正に「神は細部に宿る」と言うが如くに誰と誰とが何のためにどうしたという具体的なところに宿る「意味」こそが漠然とした抽象的な「努力」なるものを超えて私たちの心を突き動かすものだと思えてならない。

共産主義という理念のために殉じようとした炎のごとき情熱」がアレクセイ・メレーシェフの賛否両論分かれるところであって、それがこの『真実の人間の物語』が共産党の必読文献だったことがある理由なのだと思われた。

そうしたアレクセイを突き動かした「理念」がマルクスエンゲルスの「万国の労働者よ、団結せよ!」だったとかレーニンの「万人は一人のために、一人は万人のために」だったといった「意味」というものを等閑視して「事故で身体に障害を負っても不屈の精神で肉体を酷使せよ!」と読むならば(N郷さんの『武道修行の道』での書き方は正にそうだ。)全く意味不明の話になる。

革命

某ブログの某者のコメントから普段は考えることなどない「革命」について暫し考える機会があった。

英語の「Re-volution」の和訳に当てられている「革命」という言葉は元々は中国にあった言葉で「天命を新しくする」という意味だったらしい。

つまりは歴史上、経験的に見知ってきた「王朝が新しくなり皇帝が変わる」という現象は運命論者であった古代中国人にとっては「天=神が新しい統治者・支配者を求めた」ことだったようだ。

であるから、歴史は下り、現代の統治者=権力分立された司法・行政・立法のそれぞれの長が任期つきで交代することは「統治権の交代=革命」だと本質的には言うことができ?、中曽根政権から竹下政権へ、そして小泉政権から現在の安倍晋三政権への移り変わりは暴力革命という形を取ることはなくとも本質的には歴代王朝の移り変わりや天子の交代と同じだと見ることも出来る。「歴史は繰り返す」というか、自由民権運動という流れを経た新たな時代の王朝交代だったというのは一元的な思考に過ぎるだろうか?

むしろ、戦後の象徴天皇に対して皇位を排除することが革命だと考える人間は統治権というものを考えないのかも知れない。

そうした「統治権のない象徴天皇」という面からみたならば愛子さま天皇となることはそれ以上ない象徴天皇の在り方のようにも思われる。

日本国家の象徴が「愛」だなんて、天皇陛下も雅子皇后さまも未来を見据えて名付けられたように思えてならない…。

 

生きがいの探求


f:id:jinsei-tetsugaku:20190518115003j:image学校の帰り道でいつもの古本屋に寄り出口日出麿の『生きがいの探求』を買った。

一冊100円の安いコーナーを物色していて生体内の生化学についての本だとかカンブリア時代の生命進化の本だとか他にも「いいな」と思う本はいくらもあったが、なんとなくその時の私の気分は人間の心を扱ったもののほうを欲していたようだ。

特定の宗教を信仰していない私でも「出口日出麿」という名前を見て「大本教出口王仁三郎の血縁者か?」との想像は働いたが、実際のところ血は繋がっておらず王仁三郎の実娘を嫁にもらった王仁三郎の後継者だとは後で調べて知ったことだ。

こうした宗教家の本を買うようになるとは、私も我ながら成熟してきたものだと感じるが、神だとか心霊界だとかの迷信じみた思考の背後に現れる豊かで深い人間精神の洞察は流石に京大を中退したような高い学識のある人物だと感じるところがある。

大本教ではないけれど、先日も本郷の赤門から白山の東洋大学まで歩く道すがらにキリスト教の教会があって心惹かれる文句が掲げられていた。
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「夜はふけ  日が近づいている

 それだから  わたしたちは  やみのわざを捨てて    光の武具を着けようではないか」(ロマ書十三・十二)

これが新約聖書のロマ書(ローマ人への手紙)の一節であることは後で知ったが、出口日出麿の思想にはキリスト教マルクス主義の影響も読み取れるように思われた。

深い人間精神の魅力は特定の宗派を超えて人の心を掴むものだということを再認識させられた。

近藤久美(こんどう・ひさみ)さん

学校の授業で兪募穴治療を教わったときに先生が藤田六朗さんが兪募穴についての仮説を提起していたと教えてくれた。

そのことを調べたいと思いネットで検索していたら昭和37年に全日本鍼灸学会誌に掲載された近藤久美(こんどう・ひさみ)さんの「私のみた兪穴募穴」に遭遇した。

それを読んで兪穴や募穴の研究には藤田六朗さんや芹沢勝助さんといったビックネームの考察があると知ったとともに、兪穴と募穴との関係は経絡的な正経十二経脈の縦方向の関係よりも解剖学的・生理学的に理解できるとデルマトームの横並びの図を持ち出した近藤さんの考えに大いに興味を覚えた。

それで近藤さんの著書を探したら医道の日本から『鍼灸治療室』が出されていたので発注。

近藤さんはどうやら明治鍼灸柔道整復専門学校の出身だから私の師匠と同窓らしい。

兪穴や募穴を含めた要穴は二千年前の黄帝内経に説かれていたらしいが、そのあたりのことを昭和55年の日鍼灸誌に小野太郎さんが「経穴の本質」として書いているのも見つけた。

そして今日では鍼灸経穴は必ずしも黄帝内経の頃のように臓腑や経絡と結びつけずに理解している先生も少なくないらしく、古典的な考えは特に「臓腑経絡学説」と呼んでいることも知った。

この小野太郎さんの所属の「東方会」というのは柳谷素霊とも親交があった経絡治療確立の立役者の一人・小野文恵(おの・ぶんけい)が創設したもので、二代目会長の小野太郎さんは文恵さんの肉親かも知れないと芋づる式に分かってきた。

鍼灸の学会誌が重要な参考資料となると気づけたことは収穫だ。その重要な資料を理解していくための基礎的知識、例えば特定の論者の考えが古典理論にあるのか現代医学にあるのか、それとも中医学にあるのかトリガーなどなのか?といったフレーム理解などを与えてくれているのが教科書を用いた学校の授業なのだと納得できた。

 

 

医学における学と術の直接的同一性

どこかの臨床医さんが医学は医術から区別されるもので、その根幹には科学と技術の区別があるなどという混迷・錯綜した見解を説いていたらしい。

だが、その理解には現代の「学術」というものが「学」なのか「術」なのかハッキリしろなどという混迷に導かれる下地があり、外科学や整形外科学のような「生理学や病理学に基づいて患者に術を施した経験を改めて対象化して学的体系化した」ものを正しく把握できない。

その観念では科学と技術という別々のものが連関していくという「媒介関係」しか想定されておらず、科学と技術が不可分の一体となったものという認識がない。

したがって「外科術学」だとか「テクノロジー」といった把握を理解することが出来ず、現代社会における学術理解から逸れていき、逸脱してしまった己のほうこそが正しいのだと正統的なアカデミーに言いがかりをつけるしかなくなってしまう。

英語で「medicine」という医学も医術もどちらをも指す言葉が不可分の一つのものを正しく表す言葉であるにも関わらず難癖つけるが如くに。それは謂わば「人間というのは肉体なのか精神なのか白黒ハッキリさせろ」と言うがごときの駄論だからである。

しかし、最早、修正は利かないのだ。そのレベルで完成してしまったのだから…。