心証

太田勝造先生の『裁判における証明論の基礎』を買ったものの、この本の核心にある「心証」ということを知らずイメージできなかった。

悔しいので調べ始めたが、辞書に「訴訟上の要証事実に対して形成される裁判官の主観的な認識や確信」と書いてあるだけでは具体的にイメージできない。

それで個々の判決の主文をネットで検索して読んでみた。

そうすると裁判官が被告に対して「死刑」を宣告した事例では「被告人の態度からは一片の良心もうかがうことができず反省の情は微塵もない。」「被告人の犯罪性向、反規範的人格態度は著しく、もはや矯正困難」といった記載がなされており、被告を懲役に処した事例では「身勝手かつ短絡的で酌量の余地に乏しい」「その態様も……残忍なもの」「相当に悪質」「被害者の無念さは察するに余りある」とか書かれている。

そう見てくると「制定法主義」とか「成文法主義」だとか言われている法的な判断において「心証」といった「主観」が関与してくるのは「情状酌量」という「減刑」という限定された条件付きの領域であるように思われてきた。

それは「判例法主義」という他の人が如何に判断したか?裁いたか?という前例に倣うという「習慣」というか「ミラーニューロン的」というか、が法的な判断の本質であるのかも知れない。

そうすると元々は理系で進学していた太田先生が方向転換して法学の道に入って「心証」なんていう自然科学では有り得ない「主観」の問題に直面して、それを出身畑の理学的な観点で扱いたいと欲したことは理解できるにしても、「成文法」だとか「判例法」だとかの複数の人間が共有できる基準を問題視するのではなく、「減刑」という「情状酌量」に関わってくる「心証」をメインテーマとして「証明論」を考えたことは、

 

 

つづく

 

 

 

 

当為の証明

本郷、正門前の井上書房さんで鍼灸の本を数冊買った。f:id:jinsei-tetsugaku:20190215142612j:image

井上書房さんは自然科学系の本を中心に扱っていながらも医史学や東洋医学関係の本も充実してるから度々利用させていただいている。

ついでに伸松堂書店さんで松坂佐一さんの『プラトンと法律』と太田勝造さんの『裁判における証明論の基礎』を買った。
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それというのも、今日は太田勝造さんの最終講義だということを正門を入ったところの立て看板で知ったのだ。
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一ノ瀬先生の『英米哲学入門』では「事実と規範」とされている「である」と「であるべき」の後者の「当為=当に為すべきこと」こそがプラトンの言う「イデア」であり、事実と当為の問題が哲学二千年の課題だったと言ってよいのかも知れない?

それで、私のような素人でも朧気ながら見えてきたのは法学には大別して実定法学(法解釈学)と基礎(理論)法学とがあり太田さんが取り組んでいる「証明」の問題は基礎(理論)法学に該当するらしいということだ。

 

 

 

 

つづく

 

 

 

堂々たる日本人

幕末から明治にかけては私も日本人の端くれであるから最も心に響く時代である。

弟子入りした先生のところで鍼灸の術を勉強させていただくようになってから先生の術技の強烈なインパクトに「私もいつかは海外に勉強に行ってみたい」と年齢も省みずに考える昨今。というのも先生は中国で学ばれた方なのだ。

そんな自身の海外視察への夢を重ねるが如くにユーチューブで「獅子の時代」を見た。

これは、NHKがまだ国民教育というものを大事にしていた頃に山田太一の脚本で作られた番組だが、私は小学校の5~6年生だったかも知れない。

「志士」に「獅子」を重ねているのであろうが、その正にライオンのごとき強靭な意志を描き出した作品に「日暮れて道遠し」(史記)ながらも熱き情熱を再び甦らせんと努める。

オープニングの字幕に「医事考証 酒井シズ」の名を見留め温かい気持ちが沸き上がるが、幕末の医師の「貧乏人から銭など取れるか」といった気概はパリ留学で白人の福祉的活動を見聞したからということになっている。言われてみれば日本人はそもそもが福祉活動などするような民族ではなかったかも知れない?

威風堂々と欧米を視察したという岩倉使節団の如くに私もいつかは海外に治療の勉強に出掛けてみたい。

このところ痛感するに「外界を有りのままに認識する」だけでは人間としては「仏つくって魂いれず」で高村光太郎の「道程」の如くに「自らの道」を作っていくべき情熱を再び燃え上がらせんと望むところだ。

正に「人間は精神であるから自らを尊敬すべし」というところであろうし、観念世界の育成にこそ時間を費やすべきかと考える。

 

斉藤公子

人は人生の旅路の途上で後々時間をかけて解答を得るべき宿題を負わされるもののようだ。

先日の東洋文化研究所での東京学派に関する講演で「駒場哲学カルテット」とも称される「廣松渉坂部恵大森荘蔵、井上忠」の話を聞いてから「事的世界」だとか「関係主義」だとかいったことが一つのテーマとして脳裡に刻みつけられた感がある。

そんな折、今度は「斉藤公子さん」という名を人から聞かされた。何でも東京女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学)を出た幼児保育者だったということなのだが、その数ある著書がまた興味を惹き付ける。

『ヒトの子を人間に育てる保育の実践』だとか『ヒトが人間になる』『生物の進化に学ぶ乳幼児期の子育て』。

共著も多い。『自然・人間・保育』(柳田謙十郎と)、『100人の"アリサ"が巣立つとき』(山崎定人と)、……。

どうやら斉藤公子は生物進化の井尻正二や三木成夫と交流があったようなのだ。井尻には斉藤公子を扱った著書がある。そして三木成夫は職場であった東京芸大で野口体操の野口三千三(『原初生命体としての人間』)と懇意にしていたらしい。

私が30代の頃に夢中で取り組んだエクササイズでも生物進化の思想が盛り込まれていたが、そのルーツを辿っていくならば、そうした「人との縁(えにし)が思索を拓く」ような「出来事」だとか人と人との関わり合いの「関係主義的」と呼び得るような過程があったのだろうと想像された。

この件は追って追究して行きたい。

 

タレス(ミレトス派)とパルメニデス(エレア派)

ヘロドトスの『歴史』(松平千秋 訳)をヤフオクで安く落札した。この本には私が予想し仮説を立てた「知りたかったこと」が書いてある。

「さてハルパゴス(アケメネス朝ペルシャの将軍、キュロスの部下)は兵を進めてポカイアを包囲すると、もしポカイア側が(王への屈服のしるしとして)城壁の胸壁を一つだけ取り壊(こぼ)ち、家屋を一軒献納すれば、自分はそれで満足しよう、と申し入れをした。しかしポカイア人は隷属に甘んずることを潔しとせず、一日間協議した上で返事をしたいと答え、自分たちが協議中は、軍隊を城壁から退けてほしいと要請した。……ハルパゴスが軍隊を城壁から遠ざけたすきに、ポカイア人は五十橈船を海におろして、女子供に家財全部をそれに載せ、神社の神像やそのほかの奉納物も、青銅製や大理石製のものおよび絵画類をのぞいては全部積み込み、最後に自分たちも乗り込んで、キオスに向かって出帆した。こうしてペルシア軍は、もぬけの殼となったポカイアを占領したのである。」(巻一 164)

「ポカイア人はキオス人からオイヌッサイという一群の小島を買おうとしたが、キオス人はこれが商業の中心地となり、そのため自分たちの島が通商活動から締め出されるのを恐れて売却に応じなかったので、彼らはキュルノス(コルシカ島)へ向かうことになった。というのもそれに先立つこと二十年、ポカイア人は神託に基づき、キュルノスにアラリアという町を建設したからである。……キュルノス目指して出発したポカイア人たちは、先ずポカイアに航行し、ハルパゴスからひきついでこの町を警備していたペルシアの守備隊を殺し、これを首尾よく仕終えると、こんどは一行の内で遠征隊から脱落するものの身にふりかかるべき恐ろしい呪いをかけた。さらにこの呪いに加えて、真っ赤に焼いた鉄塊を海中に投じて、この鉄塊が再び海上に浮き上がるまでは、ポカイアに戻るまいと誓ったのである。しかしいよいよキュルノスに向かうことになると、市民の半数以上のものは、祖国や住みなれた場所を慕わしくまたいたわしく思う心に耐えかねて、誓いを破りポカイアへ船を返していった。そして誓いを守ったものだけが、オイヌッサイから出帆し船を進めたのである。」(巻一 165)

「一行はキュルノスへ着くと、彼らより先に移住していた者たちと一緒にこの地に五年間住み、聖所も建てた。しかし彼らは近隣に住む者たちに対し手当たり次第に掠奪を働いたので、テュルセノイ人(エトルスキ人)とカルケドン人(カルタゴ人)とが協同して、それぞれ六十隻の船をもってポカイア人を攻めたのである。ポカイア人も六十隻の船に兵員をみたし、いわゆるサルディニア海へ出動し迎え撃ったが、海戦を交えた結果ポカイア人の得たものは世にいう「カドメイアの勝利」で、船四十隻も船首の衝角がへし曲げられて用をなさなくなった。そこでポカイア人はアラリアへ帰航すると、妻子のほか船に積める限りの家財をまとめ、アラリアを捨ててレギオンへ向かったのである。」(巻一 166)

「……ポカイア人の一部はこのような最期を遂げたが、一方レギオンに逃れたものは、この地を根拠にして、オイノトリア地方に今日ヒュエレ(後のエレア)と呼ばれる町を作った。この町を建てた理由は、あるポセイドニア(パエストゥム、いわゆるペストゥム)人から、デルポイの巫女が彼らに「キュルノスを建てよ」と託宣を下したそのキュルノスとは、島のキュルノス(コルシカ)ではなく、英雄キュルノスのことであったのだと教えられたからであった。イオニアの町ポカイアのたどった運命は以上のとおりであった。」(巻一 167)

「隷属に甘んずることを潔しとせず祖国を離れたのは、右の二つの町(ポカイアとテオス)だけで、残りのイオニア人はミレトスを除き、みな離国組と同様にハルパゴスと戦い、いずれも救国の戦いに武勇を輝かしたが、結局戦い敗れ占領されて、それぞれ祖国に留まり、ペルシアの命に服することになったのである。ミレトスだけは前にも述べたように、直接キュロスと協定を結んでいたので戦火を免れていた。」(巻一 169)

 

モナドと予定調和

ライプニッツに真っ向から取り組む前に、彼の説いた「モナドと予定調和」という考えについて暫し夢想してみる。

ライプニッツ(1646~1716)はジョン・ロック(1632~1704)と同時代の人。ということはスピノザ(1632~1677)とも同時代。カント(1724~1804)は少し後の人だね。

モナドというのが何をモデルにしてるのかは諸説あるのかも知れないけれど試みに「個々の人間=個人」だと考えてみたい。例えば生物を構成している個々の細胞だと考えることも可能だとは思うけど今はそう考えない。ライプニッツが政治家だったということもあるし。

そうした「モナド=個人」が未来に向けて合意的な和合へ向かうのが「予定調和」だと考えてみる。生物の細胞だったら未来でなく現在進行形で調和してるわけだから「予定」調和でなく「現在」調和だし。

ライプニッツの「予定調和」という考えは時代的な背景としてフランスのルイ14世侵略戦争による領土拡大を行っていたことやロシアのピョートル1世がツァーリズムを行っていたことにあると思う。

そして酒井潔先生の論文「ライプニッツにおける「慈愛」(caritas)の概念」にあるが如くライプニッツには愛の観念があったらしい。

だから現代の言葉でいえば「落とし処」というか、他国との合意に基づく共生を志向していたのが「モナドと予定調和」という考えではないかと考えた。

これは同じ時代に政治的な対象を思索したジョン・ロックと比較して考えるべきものかも知れない。あるいはスピノザにも『国家論』という著書がある。

だからフランスやロシアに対するドイツの独立した主権ということを考えるにあたり「モナド」という観点は必然的だったのではないかと考えた。まあ、そうすると「モナド」は個人ではなく「個々の国家」ということになるのかも知れないが…。

その根幹に来るのはやはり「人間の活動」としての「仲良くやりたい、共生したい」といった「欲求」で、そうした心理・情動に導かれた活動という意味ではやはり「生体内の細胞」とは違うイメージだということになる。

そしてライプニッツが生きたのは神聖ローマ帝国◯◯選帝候領…。ウィキペディアによると選帝候というのは

 

 

つづく

 

正・反・合

私のように正式に哲学を学んだわけでもない素人学問でも哲学の「テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ」という言葉は十代の頃から知っている。

だが、最近あらためて「ヘーゲル弁証法は正反合ではない。ヘーゲルは正反合と言ってない。」という話を耳にした。

これは何年前か十何年前かにも聞いた話で確か山口誠一先生が「日本でヘーゲル弁証法が正反合だと言われるようになったのはフェノロサ東京大学で行った授業で正反合だと語っていたからだと阪谷芳郎のノートから判明した」みたいなことを書いていた気がする(うろ覚え)。

それで加藤尚武先生なんかもコトバンクの「正・反・合」で「正反合というのはフィヒテの概念でヘーゲルは違う」みたいなこと書いている。

私は生意気にも加藤先生の説明は何か変だと感じるので少し考えてみたい。

確かヘーゲル弁証法って「止揚」というのとセットみたいになっていて、止揚というのは例えば「花が散って果実が残るようなもの」だと語られていたような気がする(うろ覚え)。

そこで「花」というのはどういうものかと言えば「生殖器」で雌しべと雄しべで構成されていて、あるいは雌花と雄花に分かれてるのもあるだろう。花があって受粉するから被子植物には果実・種が出来て種の保存がなされ絶滅が回避される。

だから時として「花より団子」という「華美と実利」と対立し対比した関係として同列で比較・選択される事柄も「花(美しさ)があったから団子が手に入った」と時系列・過程で理解するのがヘーゲル弁証法の一面と言えるのだろうか?

「見映え」と「実益」という一面的には相反するものだと把握されもする概念・対象を「一方があったから他方が成立した」「次の段階に進めた」という「相関関係」というか「相互依存」「対立物」「自他の関係」を把握するのもヘーゲル弁証法ではなかろうか?

それは時として形式的には「自由と不自由」という対立した関係・概念、テーゼとアンチテーゼとを「成人の自由へ向けての未成年者の不自由、成人は飲酒喫煙が許されるが未成年者は禁じられる」という過程的・時間的なジンテーゼで総合するのもヘーゲル弁証法の「正反合」の面だと述べたならば言い過ぎであろうか?

その時の「止揚」というのは「他者から禁じられる」という形が消え失せても「自らを禁じ律する」という形で次の段階に螺旋的に上昇しているという「教育学的」な観点で理解できるものなのかも知れない。

 

だから「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりし」とは言うものの、花のように美しき時代があったからこそ……何となく危険な論理に進みそうだから止めておくが、

 

 

つづく(書きかけ)