ギリシャ哲学の歴史学

古代ギリシアの哲学思想を当時の社会状況に即した情動に根拠を求めたいとの欲求を実現するため歴史学者の師尾晶子先生のお知恵を拝借した。

師尾先生のアルカイック期僣主制の時期を考察した歴史学の論文から、ミレトス派タレスやエレア派のパルメニデスの思索がギリシアペルシャとの政治的関係に対応させられるように思われ…

パルメニデスが生きたイタリア半島のエレアという都市はそもそもがアナトリア半島にあったポカイア(Phocaea)からペルシャ帝国のキュロス大王の支配を嫌い逃れてBC540年に建設したものらしいと理解できたし、タレスの智恵をキュロスが認めたという話も聞けた。

そして、当時のギリシア世界を支配した僣主たちはペルシアの傀儡として活動していたとの情報からパルメニデスの「同一律排中律」といったものは「ポカイア人(ギリシア人)なのか?ペルシア人なのか?」といったナショナリズムというか民族性を問うていく思考に由来するのではないか?との仮説が生じてきたし、タレスの「アルケーは水」というのもペルシア帝国の中枢にあったチグリス川・ユーフラテス川やエジプトのナイル川が帝国繁栄の最根底にあることを認識してのものではないか?との仮説に繋がってきた。

敢えて対立的な図式にするとタレス(ミレトス派)とパルメニデス(エレア派)との思想の違いは「親ペルシア(親キュロス大王)」と「反ペルシア(反キュロス大王)」という情動の違いから生じてきたものだと理解することも出来るかも知れない。それは一方でタレスの「アルケー(始まり)は水」→「生きるためには仕方ないやろ」というペルシア属国を容認する?思想に対するパルメニデスの「ギリシア人(ポカイア人)でありながらもペルシア人でもあるなんて傀儡の中立的立場なんか許されへんやろ」という情動に導かれて同一律排中律の考えに繋がって行ったものであり、李香蘭山崎豊子のような「二つの祖国」なんざ認めへんとの空間的時間的な観念やったかもしらへん。

そう考えてみるとパルメニデスが祖だとも言われる「論理学的思考」というのも何や絶対的なものやない気が増してくる。絶対的・普遍的というよりも、そうした考え方が生じ適合する特定の事象・事例があったのだと思われるところだ。

そうすると、アリストテレスのように「タレスのような前ソクラテス思考は自然哲学なのだ」などとは断定できなくなってしまうが、それも本格的に調査してみないことにはハッキリしたことは言えない。

とにかく、この件はヘロドトスの『歴史』やパウサニアスの『ギリシア案内記』、プリニウスの『博物誌』は読んでおかなければならないようだ。

そしてA.D.ゴッドリーやリチャード・スティルウェル他の古典研究者たちの論文も…

コギトとモナド

昨日はエズラ・F・ヴォーゲルの『トウ小平』を読んでいた。(この登におおざとの漢字が出ないのは悩ましいが…)

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というのも最近『評伝 小室直樹』という本を買ったのだ。著者の方とは多少のご縁があったので買ってみようとアマゾンで検索してみたら定価の8割増しぐらいの高値がついていた。それで問い合わせたら出版社には在庫がないという。「発刊されて3ヶ月で在庫切れなんて凄い人気」だと仕方なくアマゾンで安く出品されているのを落札した。

まあ、その後、都心の書店を回ってみて本屋にはまだ在庫のあるところがあったから「やはりネットの情報だけで判断していると実際の街の様子を誤って判断することもあるんだな」と思ったが、その『評伝 小室直樹』に掲載されている小室直樹氏の著作目録をどこから読んで行こうか?と思案したときに著者が特に印象に残っているらしい『田中角栄の呪い』か『ソビエト帝国の崩壊』か、だなと考え…

それでソ連の崩壊を10年も前に予言したのは小室直樹氏だけとの評に興味を覚え、というのも小室氏はソ連とともに中国の崩壊をも本で予言してたわけだから。

小室博士の予言の中身を深く検討していく前に「当時のソ連共産党書記長がゴルバチョフでなくトウ小平だったなら中国が現在も崩壊せずに存続しているのと同様にソ連もいまだに存続していたかも知れないな。小室氏が1980年に崩壊を予測したブレジネフのソ連は、その後、ゴルバチョフペレストロイカやグラースノスチを打ち出して民主化を進めようとしていったから、言わばブレジネフのソ連のままでなくアメリカ化・フランス化していったとも理解できる。そこは、まあ、弁証法の相互浸透だと理解することも可能ではあると思ったが、しかしその民主化ソビエト連邦の崩壊に繋がったことは否定できないと思われた。民主化なくして国民投票など有り得ない。

だが、もしも当時のソ連共産党書記長がゴルバチョフでなくトウ小平だったなら、市場経済を導入しながらも共産党一党独裁という統治形態を崩すことなく天安門事件を武力鎮圧した如くに連邦内国家の国民投票など踏み潰したかも知れない。」

などと考えて、そうした事件についての判断は自由主義vs社会主義とか西欧vs東欧といった図式で考えるのでなく国家の最高権力者・最高指導者が誰なのか?という「個人」という次元まで判断の基準を細かくする必要があるだろうな、と思った次第で。

そうした私の「社会主義に対して民主主義」だとか「ゴルバチョフに対してトウ小平」だとかをカウンター的に合わせていく10代から習慣となっているイワユル弁証法的な考え自体も考察の対象にはなるわけだが、そんな流れからヴォーゲルの『トウ小平』を読んでいるわけだ。それはやがて「小室直樹氏の予言の妥当性」というところに私を導いてもいくだろうが…。

そんなおり、東洋文化研究所で開かれた日本哲学のイベントで良い話を色々と聞いた。

中でも故・坂部恵さんが「カントが100年単位の天才だとしたらライプニッツは千年単位の天才」だと語っていたという話が印象に残った。帰宅して調べたら『ヨーロッパ精神史入門』という本で加藤尚武先生がこのタイトルで論文を書いている。

そこからライプニッツにも興味が湧いてきて、何しろライプニッツはそもそもが政治家だったというし、彼の「モナド」というのもデカルトの「コギト」に通じて哲学原理における「個」の重要性を扱っているのではないか?と想像を膨らませ。

この問題は時間をかけて追って行きたい。

 

つづく

これから読みたい本、論文

●師尾晶子(千葉商科大学)「古代ギリシアにおける「他者」の発見と「他者」との境界をめぐる言説の展開」

●丸山恭司(広島大学)「教育において<他者>とは何か~ヘーゲルウィトゲンシュタインの対比から」

●小林正士(国士舘大学)「ヘーゲルの社会哲学と市民法原理」広義の国家と狭義の国家

●金成垣(東京大学)『後発福祉国家論~比較のなかの韓国と東アジア』相互浸透

●粕谷祐子(慶應義塾大学)『比較政治学

●ガブリエル・アーモンド『比較政治学

●田中道昭(立教大学)『アマゾンが描く2022年の世界』アマゾンとアリババ、EC=電子商取引アメリカと中国

●『ジャック・マー アリババの経営哲学』

●『ジェフ・ベゾス ライバルを潰す仕事術』

●遠藤誉『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』

●遠藤誉「Huaweiの任正非とアリババの馬雲の運命:中共一党支配下で生き残る術は?」

 

東洋医学と東洋思想

頼んでおいた藪内清さんの『中国古代の科学』(1964年)が届けられた。
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とても示唆に富んだ魅力的な知見が綴られている。

いくつかピックアップしてみると

 

①「近代科学の開幕は十六世紀のヨーロッパからはじまっていて、十九世紀の後半から科学と技術とが密接なつながりをもつようになり、たがいに因ともなり果ともなって、科学と技術は加速度的な発達をとげて現在にいたったのである。……十五世紀以前のヨーロッパと中国との科学技術を比較するならば、両者のへだたりはほとんどなく、かえってヨーロッパは中国からの恩恵をかずかず受けてきたのである。ヨーロッパの新しい誕生が、イスラム世界からの遺産によることが多かったことは、すでに多くの西洋の学者によって注意されてきた。ところが中国の科学技術が世界の文明に果たしてきた役割については、西洋の学者はもちろん、中国に隣りあって、しかも過去に中国文明の恩恵をふんだんに受けてきたわれわれ日本人さえも、正当に評価しようとしない。中国人の才能は科学や技術にむかないという放言が行われたのも、わずか二〇年前の日本人の口からであった。」

②「今次の大戦後に成立した新中国は、共産陣営にあってソビエットと対立する二大強国となった。もはや世界の人々は新中国を無視することができなくなった。科学の面でも中国人学者のなかからノーベル物理学賞の受賞者が生まれており、今後における世界の科学技術に対する中国人の貢献はじゅうぶんに期待できる。」

③「過去における中国の科学技術の発展は、また世界全体の科学技術史の展開に大きく貢献したことを忘れてはならない。過去の中国人は、けっして恵まれた環境にあったといえないが、ほとんど独力ですばらしい科学と技術を育て、それを基礎にした文明をきずいてきたのである。こうした科学と技術の展開は、また中国史自体の研究にも欠くことができない。」

④「新石器時代から金石併用時代にかけては、他の古代文明と同じように、中国もやはり原始社会の後期にあり、氏族を単位とする共同社会であったらしい。農耕は行われていたが、その収穫は成員のあいだに分配され、余剰の蓄積とてほとんどなかった。ところが殷の時代になって青銅器による優秀な武器が登場してくると、原始共同体は崩壊し、かなり広い地域を支配する国家が誕生することとなった。この国家では、征服した多数の他部族を奴隷とし、これらを使役して生産に従事させた。いわゆる奴隷制国家の誕生である。」

 

②と④から私には連想されたことがある。それはこの本が出版された1964年という年代とも関係するのだが、1956年にソ連スターリン批判がなされ1972年に日中国交正常化が声明される間の時代だということで、著者である藪内さんはマルクス主義者、それもソ連スターリン主義よりも中国の毛沢東主義に近かったのかも知れないという連想だ。正に「時代の学問」というか、そうした中国共産主義への応援・肩入れの情動・政治性がヨーロッパに対して中国の科学文明が優るとも劣らなかったということを明らかにせんとの学的信念に繋がって行ったのではなかろうか?という一人の科学史家に対する心理学的な関心である。

だが、この本には興味深い宝の知見がまだまだ山ほど発掘できるが、例えば「中国の医学」の章にある

 

⑤「扁鵲の時代には病気は五臓の気の不調和から起こると考えられた。五臓とは肝、心、脾、肺、腎臓であり、これに対し胆、胃、大腸、小腸、膀胱、三焦を六腑と称する。……気に病むことが病気であるというのは、古い中国の生理思想から生まれたものにちがいないが、さてこの気が何であるかというと、現代の学術用語には見あたらない。西洋の古代医学のプノイマということばは、ほぼ中国の気にあたっていたように思われる。かんたんに言うと、気は二元論の立場から生まれたことばであって、物質と対立する概念である。」

⑥「経絡という用語はすでに『扁鵲伝』にも出ているが、これは動脈や静脈ともちがい、現在の医学ではそのままでは実在しない。ところが経絡上の部位に施術を行うと、かなりいちじるしい効果があることは疑えないのであって、完全に一致するわけではないが、経絡は部分的に現在の交感神経系統にあたるものと考えられる。中国の医学ではもちろん神経という思想はないが、鍼灸は交感神経を刺激して治療する方法であり、中国人は長い経験のあと、どの点を刺激すれば最も効果的であるかを知ったのである。」

 

鍼灸治療は交感神経を刺激する方法である」という知見が非常に興味を惹かれるものである。

ところでインターネット上で面白いブログを綴っている従心の老婆が腎臓結石で入院したとの情報が入った。何でも腎臓結石から腎盂炎になったのだそうだ。

それに対して鍼灸師を自称する常連のコメンテーターが「退院したなら脛の胃経を整圧しなさい。灸でも良いです。」と書き込んでいたのに初心者の私は興味を覚えた。

「どうして腎臓結石の腎盂炎で胃経なのだ?」と。腎臓なのだから泌尿器であるし腎経や膀胱経ではないのだろうか?と。また、腎臓結石や腎盂炎の特効穴だと聞く「京門」ではないのだろうか?と。

鍼灸治療の配穴は治療家によって個性があるとも聞くから腎盂炎に対して胃経の脛という判断にも何らかの根拠があるのかも知れないが、「腎臓結石で腎盂炎なのだから腎経や膀胱経!」のほうが解りやすいといえば解りやすい。最も「腎臓結石だとか腎盂炎の特効穴」だという「京門」は腎経でも膀胱経でも無く「胆経」であり「胆」というのを「胆臓」だとしたならば「消化器系」ということになるが「京門」は腎盂炎の他にも生殖器に効果的だという話だから複雑ではある。

最も、仮に想定してその従心の老婆と自称鍼灸師が実際に面会していて腎臓の障害から下腿が浮腫んでいるのを見た自称氏が「脛への手技を」ということで「胃経の脛」なんてことを書いたのだとしたならば、そこで必要な知見は胃経などという経絡的なことではなく浮腫を除去するためのリンパへの手技だったかも知れないが、飽くまでも私の仮想の話でしかない。

そこから連想を繋げてみたのが安冨歩先生の「孔子老子に関する講義」で知った『老子』の「道可道也  非恒道也  名可名也  非恒名也」で、わたしの勝手な解釈だと「非恒道也」の「恒」というのは儒教の「五恒(常)=仁、義、礼、智、信」でこれが「恒(常)=絶対」じゃないのだと言ってるのだと考えた。つまり「道可道也  非恒道也」というのは「道というのは歩ける道を言うのであり、それは恒ならざる道なのだ」ということで例えば主君から「死ね、腹を切れ」と言われても「上意下達」ということを絶対視し恒とすることなく「それは出来ない」と断って構わないという思想なのだと思ったし、その「道」というのは現代の日本語でいう「人道的」だとか「道義的」という意味内容と同じであるように思えた。

そして「名可名也」の「名」というのは「名家」の「名」で、だからやっぱり諸子百家の思想だと思うわけだが、例えば公孫竜の「白馬非馬」みたいな「<白馬>と<馬>は違う名前(言葉)なのだから違うものだと扱いなさい」なんてのも「そんなことは出来ない」と断って構わないという思想だと考えた。違う名前(言葉)だからといって絶対的に違う対象だなんてことは恒(常)ならずと言ってるのだろうと考えたわけだ。

だから日本の戦国時代に主君から「死ね、自害を申しつける」と言われて素直に従ったとか第二次大戦で天皇陛下の詔として特攻していった神風兵士は孔子的(儒教的)ではあったが老子的(道教的)ではなかったと言えるのかも知れない。

孔子的な命令規範を拒絶する老子的な発想は「死なせてはならない!」との思想を背景にしているわけだからヨーロッパ的な「自由の思想」とは完全には合致しないかも知れないが基本的人権とは重なっていくものだと考える。「東洋的自由の思想」と呼んでいいものかも分からない。

孔子的な思想と均衡を保つような老子的な観念が老獪だとか老猾と重用されるのか、それとも老害と排他されるのかは状況次第かも知れない。「死ね!」という他者の意図に「非可道也」と従わなかったがゆえに老子は何百年も生きられたとの伝説が生まれたのではなかろうか?

そうした「恒(常)ならず」との老荘思想に繋がって行く面で捉えることの出来るのが「腎(泌尿器)疾患に胆(消化器)の反射点を用いる」という中医の方法だろうか?などと広げてみた次第なのだが……。「胆と名がついているからといって胆臓系だとか消化器系だとは限らない、恒(常)ならず!」とか、ね。

安冨歩先生の講義録では今、マイケル・ピュエットの『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』という本が凄く売れていてハーバード大学では東洋思想の講義が凄く人気なのだと言っていた。

私の考察もいつの日かハーバードに繋がっていく日が来るのかも知れない…

 

 

鍼灸あるいは周辺文化への雑感

あらかじめ何らかのテーマやタイトルを付して記述をしていくことは論点を整理して論理の道筋を明らかなものに再構成していくわけだから読むほうも読みやすいかも知れないが「書くことは考えること」(パスカルの言葉らしいが(笑))との「自分史上初」の未知なる筋道を発見するべく思索の役割をも担った記述の場合は概してそうしたタイトルが邪魔立てすることが多い。

要するに未だ確固とした論点を掴めていないことの告白なわけだが、そんなこともあり何らかの「テーゼ」の形でのタイトルはつけずに書き進めたい。

鍼灸の学校への入学が決まり4月から通学が始まるわけだが、それを待てずに都内の勉強会に入れていただいた。これまでの経験から学校で解剖学や生理学を地道に学んでいく過程は数年後の臨床での判断に結びつき開花していくものだと想像するが、既に開業し臨床の場に立っている先生方の勉強会は更に現場に即した実践的な内容であるから基礎からゴールまでの道筋が手っ取り早く見通せるように思われたのだ。

その通りに講師の先生も私のような初心者が想像しがちな「鍼灸の技術をモノにするには10年単位の修業年数が必要なのでは?」との恐怖感?を軽減すべく「何事も徹底的に深めようとすれば10年単位という話にもなろうが実際に臨床で使えるようになるのにそんなに時間は必要ない」との話をされていた。

まあ、参加2回目の先日は「脈診」をやったわけだが、確かに「脈」には「浮」だとか「沈」だとか「数(さく)」「遅」とかいった触知し分けることが出来る質の違いがある。これは「わざ」として身につけなければとの思いを強く感じさせられた。

そして、脈診で触知した脈の質的な違いから何を判断するのか?というところまでは今回はハッキリとは進まなかった(ように私には感じられたが、既に資格を持ち開業されてる先生方には違うように映ったかも知れないが…)。が、何となく「判断する材料の一つとして診る」のだろうな…ということが感じられた。言うなれば「尿検査で肺炎菌が検出された→肺炎だ」というような「1対1の対応」をするような絶対的な判断でなく、既往歴で過去にどういった疾患の経験があるか、家族構成はどうか、趣味嗜好は何か、といったそれぞれそれ一つの情報で医療的な何かを判断することは出来ない諸々の情報と合わせて必要な判断を下していくといった現代医師もやってることのイメージか?

そうした「臨床推論」というか「診断確率」「検査前確率」というかを高めていく過程の一つとして「脈診」が位置づけられるのだろうと想像した。

先生の「臨床推論」の本が春頃に出るという話だったが、そうした「事前の予測」だとか「確率」の話は「経験論哲学」にも通じるものだと興味深く思われた。

ちなみに、「鍼灸と科学は相容れない」なんて話をその勉強会以外のところで耳にしたが、それはやはり「ウイかつノン」というか何をどういった視点で見ているのか?語っているのか?で違ってくる話であるから「鍼灸と科学は相容れるか否か」ということを一つのテーゼとして絶対的な一つの解答を出すことは不可能だと思われた。

というのも鍼灸治療というのが多様な要素から成る複雑なプロセスをもつものだから、端的に言ったら「鍼灸師は科学者か?」といえば違うわけで、特に臨床で治療することを強く意識している専門学校の生徒ならば設備費用が大きく必要となる科学的研究をしようとは普通は考えないだろうし、何よりも身近にあってそんな高価でない治療費ということを眼目としてる治療家ならば出費した研究費を回収するために治療費が高くなることは望まないかも知れない。

また、鍼灸治療には「薬物の治癒効果」のような薬理作用・生化学的作用のような面とは別に「ケア」の面があり、そこには温かい心情をもった治療家と患者との心と心の関わりのような部分がある。そこが臨床現場に立つ鍼灸師の中に「科学的研究」若しくは「理数系」を好まない者がいる理由の一つかも知れない。

同じような「ケア」の領域である看護でも現場の臨床家と研究機関の研究者とでは志向性の違いがあるようだ。

しかし、間違いなく鍼灸という領域でも科学化の方向性は深まっていると思われる。それが大学や大学院から提出される研究論文だ。

だから先の「鍼灸と科学は相容れない」という話を聞いてボヤいている人物は大学院ならぬ専門学校へ行き、その上なお「古典の研究会」などにいって素門や霊枢の研究をしてる先生をつかまえて「科学と相容れない」などと言われて嘆くこと自体が不適切なのではないだろうか?

私の知ってる鍼灸を科学する先生のところでは被験者の生理学的なデータを取るための高価な機材が置いてあったが、間違いなく治療家個人で購入できるような金額の機械ではない。

また、「脈診の科学」なる論文を書いている人を調べてみたら「鍼灸師」ならぬ「工学者」であった。つまり、そうした研究というのは「医工学」であり、臨床現場に立つ鍼灸師のやる仕事ではなく医学に関わる理工系の科学技術者がやる仕事というような話だった。

ちなみに、私の知ってるN先生の「科学的鍼灸」の研究は鍼治療の生理学的な実測データに基づいていたのだが、これは例えるならば「歴史的文化の無いアメリカ的な研究」と言って良いのかどうか…?

藪内清さんの『中国古代の科学』(1964年)のように「東アジアで構築された東洋科学」と言って良いのか分からないけれど、例えば「心は舌に開竅する」とか「肝は目に開竅する」といった経験的な知見(換言するなら古代文化的な先入観)をエビデンスあるものとすべく科学化を試みることは、カントの「コペルニクス的転回」よろしく何の仮説もなくデータを取ることとは違ってくるのだろう。

だが、「科学=西洋科学」であるかに東洋が蔑視されていた時期のアンチテーゼとしたならば、西洋文明と交錯する以前は全くの未開の土着民であったかの不名誉を払拭し過去の名誉を取り戻すために「東洋科学」なる呼称も必要だったかも知れないが、情報が共有され今や中国も分子生物学的な研究をしてノーベル医学生理学賞を狙っている今日、科学は「現代科学」となり医学も「現代医学」となっているから「西洋科学と東洋科学」との区別は必要なものとは思われない。

だから今ここで「東洋医学とは何ぞや?」との問いに解答するとしたならば「<古代から中世にかけて>の中国もしくは東アジアで患者を治療する際に用いられた医学的な知見、思想」とでもいった「時代区分」という時間的な観点が「東アジア」という場所的・空間的な観点とともに必要とされるだろうし、現代でも学校教育の現場で「東洋医学概論」といった形で指導されている現実に関わっては「明治期に西洋医学の体系内に含まれないものとして既得権としての開業権を許可された鍼灸師の判断の拠り所」だとか「鍼灸治療の拠り所となる西洋医学的な知見は無いがゆえに江戸期以前のまま残されている鍼灸治療の指針的な理論」だとか「明治維新後に日本に導入された蘭学(欧米)の医学と区別される、蘭学導入以前の日本の医療指針」といった歴史学的な知見を多分に含んだものとなると考える。

つまりは、ここで「東洋医学とは何ぞや?」との問いへの解答の核心部分は「人体や治療について如何に考えているか?」という医学の中身(換言するなら時空間を等閑視した蘭方医学漢方医学との内容の違い)にあるのではなく、それの社会的な位置づけという歴史的な変遷の中にある。

そうした時間軸・歴史性からなる「東洋医学なるものの社会的な位置あるいは時期」という観点が、古代から現代まで連綿と存在し続けているかに見える「東洋医学」なるものを普遍的本質的・形而上学的に捉えようとの姿勢に歯止めをかけて実存的で現象学的に東洋医学を把握することに向かうと確信する。

 

 

 

東洋思想

昨年、北京で開催された世界哲学会議のパンフレットを見ると開催国である中国の歴史に残る思想家たちの肖像画が並んでいる。

孔子(Confucius)、老子(Lao Tze)、孟子(Mencius)、荘子(Chuang Tze)、王弼(Wang Bi)、慧能(Hui-Neng)、朱熹(Chu Hsi)、王陽明(Wang Yang-Ming)…

今、古代東洋の思想家たちの再評価が哲学の世界でも行われているようなのだが、その一翼を担っているのが昨今の心の哲学の研究成果なのかも知れない。

私も日本で生まれ育った日本人として、日本の歴史を築いてきた日本人の思想というものは知っておきたいと考えるが、日本人の思想というと「やまとごころとからごころ」と言うが如くに日本・朝鮮・中国という例の「東アジア」という広い領域での思想的な営みを無視することは出来ないようだ。

尊敬する初代タイガーマスクの佐山先生は日本人の心の財産としての陽明学復権させるべく今年から本格的に活動されるようだが、佐山先生が時々おっしゃる「格物窮理」というのは私なりに解釈させていただくならば日本刀に等級があることを悟ることのようなものだと考える。

それは基本的には四書五経儒教の考えなのだと思うから、朱熹王陽明とで微妙に解釈が違ったとしても、本質的には中国の、そして東洋の思想に違いはない。

格物致知」とは私なりの解釈では「物には格の違いがあることを知るに至る」ことであり、「格物窮理」とは「物の格の違いがどこから生じるのかの理(ことわり)を明らかにすること」だと考える。

そうした東アジアに広く行き渡る「物の格の違い」「品質」への認識が技を極めて良い質の製品を生み出さんとした日本人や朝鮮人、中国人らの勤勉で目の肥えた日常に繋がったのではないか…?

それが食事の食べ方から歩き方までを「斯くあるべし」と作法化し、「品位」なる認識で捉えようとする日本人の歴史的な思考かも知れない。

そもそもが「品(ひん)がある」って何だ?というわけで「品」って「品物」ですよ。「物」ですから存在してれば物(もの)であり品(しな)なわけですが、その物に格というグレードの違いを見るわけで、言ってみれば「何でも鑑定団」の鑑定士のような「目利き」「鑑定眼」が必要とされるということ。

だから朱熹の「性即理」に対する陸象山の「心即理」は主唱者の現実に生きた立場から経験的に理解すべきものだと考える。

恐らくこのことは、例えば現代でいったら「難病奇病は患者数が少ないから費用を回収出来ないという理由から研究開発が進まない」という現実は朱子学的には真理であるのだろうけれども、そこに「それで良いのか?」ということを人道的な感情・心の問題として取り上げていくのが陽明学的なのではないか?と考えた。

そこから「知行合一」として何らかの資金捻出に奔走せんと活動するのが「現代の武士道」「陽明学の現代的な活用」となるのだろうか…?

陸象山や王陽明の思想はデカルトの「ゴギト・エルゴ・スム」や西洋の実践哲学に何ら劣るものではないかも知れない。

そうした東アジアで育まれた高い文化性を持ち合わせていたがゆえに、日本人は幕末から明治維新の文明開化において欧米文化を吸収できたのかも知れない。

良く話題とされるヘーゲルがアジアを低くみて蔑視していたことは、ヘーゲルの思想の根元が宗教、それもキリスト教への賛歌であることから理解されるようにも思えた。

ヘーゲルが生きた時代、中国の支配王朝は清であり、ヘーゲルが生まれる前に「典礼問題」でキリスト教の布教活動を中国の慣習・文化を受け入れる形で推し進めたイエズス会の活動を時のローマ教皇クレメンス11世が禁止したという事件があったからだ。

このキリスト教と中国文化(中国思想)との共生に反対したイエズス会以外のキリスト教会派の根底には出し抜いて信者を増やしたイエズス会への「嫉妬」があったように思える。

正に「心即理」であり「致良知」である。

主催国である中国が用意した2018年の世界哲学会議の大きなテーマは「学以成人」=「Learning to be Human」、中国思想において、そして東アジアの私たち日本人にとっても「道(みち)」というのは「人間になっていく過程」を表す言葉であったようだ…

 

つづく

 

 

 

 

 

カオス…

特に自分の職業に直接つながってくるわけでもないが「なんとなく」の直感的な興味で関わっていることはいくつもある。

それがスティーブ・ジョブズの言う「結ばれた点と点」として論点が顕になってくる日がくるのか否かさえ分からないけれど、最近は波多野誼余夫さんの本に魅力を感じて読んだりなんかしている。

その発端は「教授-学習過程論」という教育プロセスを扱った本を波多野さんが書いていると知ったからだが、その波多野さんが東大の教育学部で心理学を専攻した「教育心理学」という領域をご専門としていたことを知ったのはつい先日のこと。

教育における「過程論」というものへの関心から調べ始め、日本の書名で「教授-学習過程論」なる名称が見えてくるのは官見内では1985年の伊藤信隆さんのものからのようにみえたが、英語での「The teaching-learning process theory」は少なくとも1976年にアメリカの教育学者が書いていることを知る。

そんな折、波多野さんの『感情と認知』を購入。
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この2002年の放送大学のテキストには、それまで心理学の中でも別々の領域として研究されてきた感情と認知の密接なる相関関係が説かれていて、日本でそれが研究され始めたのは1980年代初めらしいとされていた。

恐らく教育という分野における過程論というのは互いの知的な発展が感情面の相関関係に影響されることを踏まえた教育心理学としての内実を有しているのだろうと考え…

そういえば先日ぶらりと立ち寄った本郷での教育心理学会のシンポジウム「本物の自尊心を育む」では自尊心を専門の心理学用語では自尊感情と呼ぶようなこと言っていた。

シェーラーないしは現象学の愛の哲学も、生きる動機を求める人生哲学もしくは死生学も、あるいは心の哲学の情動論も、このあたりに核心があるかも知れない。

カオスの道程は続く…