心証

太田勝造先生の『裁判における証明論の基礎』を買ったものの、この本の核心にある「心証」ということを知らずイメージできなかった。

悔しいので調べ始めたが、辞書に「訴訟上の要証事実に対して形成される裁判官の主観的な認識や確信」と書いてあるだけでは具体的にイメージできない。

それで個々の判決の主文をネットで検索して読んでみた。

そうすると裁判官が被告に対して「死刑」を宣告した事例では「被告人の態度からは一片の良心もうかがうことができず反省の情は微塵もない。」「被告人の犯罪性向、反規範的人格態度は著しく、もはや矯正困難」といった記載がなされており、被告を懲役に処した事例では「身勝手かつ短絡的で酌量の余地に乏しい」「その態様も……残忍なもの」「相当に悪質」「被害者の無念さは察するに余りある」とか書かれている。

そう見てくると「制定法主義」とか「成文法主義」だとか言われている法的な判断において「心証」といった「主観」が関与してくるのは「情状酌量」という「減刑」という限定された条件付きの領域であるように思われてきた。

それは「判例法主義」という他の人が如何に判断したか?裁いたか?という前例に倣うという「習慣」というか「ミラーニューロン的」というか、が法的な判断の本質であるのかも知れない。

そうすると元々は理系で進学していた太田先生が方向転換して法学の道に入って「心証」なんていう自然科学では有り得ない「主観」の問題に直面して、それを出身畑の理学的な観点で扱いたいと欲したことは理解できるにしても、「成文法」だとか「判例法」だとかの複数の人間が共有できる基準を問題視するのではなく、「減刑」という「情状酌量」に関わってくる「心証」をメインテーマとして「証明論」を考えたことは、

 

 

つづく