正・反・合

私のように正式に哲学を学んだわけでもない素人学問でも哲学の「テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ」という言葉は十代の頃から知っている。

だが、最近あらためて「ヘーゲル弁証法は正反合ではない。ヘーゲルは正反合と言ってない。」という話を耳にした。

これは何年前か十何年前かにも聞いた話で確か山口誠一先生が「日本でヘーゲル弁証法が正反合だと言われるようになったのはフェノロサ東京大学で行った授業で正反合だと語っていたからだと阪谷芳郎のノートから判明した」みたいなことを書いていた気がする(うろ覚え)。

それで加藤尚武先生なんかもコトバンクの「正・反・合」で「正反合というのはフィヒテの概念でヘーゲルは違う」みたいなこと書いている。

私は生意気にも加藤先生の説明は何か変だと感じるので少し考えてみたい。

確かヘーゲル弁証法って「止揚」というのとセットみたいになっていて、止揚というのは例えば「花が散って果実が残るようなもの」だと語られていたような気がする(うろ覚え)。

そこで「花」というのはどういうものかと言えば「生殖器」で雌しべと雄しべで構成されていて、あるいは雌花と雄花に分かれてるのもあるだろう。花があって受粉するから被子植物には果実・種が出来て種の保存がなされ絶滅が回避される。

だから時として「花より団子」という「華美と実利」と対立し対比した関係として同列で比較・選択される事柄も「花(美しさ)があったから団子が手に入った」と時系列・過程で理解するのがヘーゲル弁証法の一面と言えるのだろうか?

「見映え」と「実益」という一面的には相反するものだと把握されもする概念・対象を「一方があったから他方が成立した」「次の段階に進めた」という「相関関係」というか「相互依存」「対立物」「自他の関係」を把握するのもヘーゲル弁証法ではなかろうか?

それは時として形式的には「自由と不自由」という対立した関係・概念、テーゼとアンチテーゼとを「成人の自由へ向けての未成年者の不自由、成人は飲酒喫煙が許されるが未成年者は禁じられる」という過程的・時間的なジンテーゼで総合するのもヘーゲル弁証法の「正反合」の面だと述べたならば言い過ぎであろうか?

その時の「止揚」というのは「他者から禁じられる」という形が消え失せても「自らを禁じ律する」という形で次の段階に螺旋的に上昇しているという「教育学的」な観点で理解できるものなのかも知れない。

 

だから「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりし」とは言うものの、花のように美しき時代があったからこそ……何となく危険な論理に進みそうだから止めておくが、

 

 

つづく(書きかけ)