タレス(ミレトス派)とパルメニデス(エレア派)

ヘロドトスの『歴史』(松平千秋 訳)をヤフオクで安く落札した。この本には私が予想し仮説を立てた「知りたかったこと」が書いてある。

「さてハルパゴス(アケメネス朝ペルシャの将軍、キュロスの部下)は兵を進めてポカイアを包囲すると、もしポカイア側が(王への屈服のしるしとして)城壁の胸壁を一つだけ取り壊(こぼ)ち、家屋を一軒献納すれば、自分はそれで満足しよう、と申し入れをした。しかしポカイア人は隷属に甘んずることを潔しとせず、一日間協議した上で返事をしたいと答え、自分たちが協議中は、軍隊を城壁から退けてほしいと要請した。……ハルパゴスが軍隊を城壁から遠ざけたすきに、ポカイア人は五十橈船を海におろして、女子供に家財全部をそれに載せ、神社の神像やそのほかの奉納物も、青銅製や大理石製のものおよび絵画類をのぞいては全部積み込み、最後に自分たちも乗り込んで、キオスに向かって出帆した。こうしてペルシア軍は、もぬけの殼となったポカイアを占領したのである。」(巻一 164)

「ポカイア人はキオス人からオイヌッサイという一群の小島を買おうとしたが、キオス人はこれが商業の中心地となり、そのため自分たちの島が通商活動から締め出されるのを恐れて売却に応じなかったので、彼らはキュルノス(コルシカ島)へ向かうことになった。というのもそれに先立つこと二十年、ポカイア人は神託に基づき、キュルノスにアラリアという町を建設したからである。……キュルノス目指して出発したポカイア人たちは、先ずポカイアに航行し、ハルパゴスからひきついでこの町を警備していたペルシアの守備隊を殺し、これを首尾よく仕終えると、こんどは一行の内で遠征隊から脱落するものの身にふりかかるべき恐ろしい呪いをかけた。さらにこの呪いに加えて、真っ赤に焼いた鉄塊を海中に投じて、この鉄塊が再び海上に浮き上がるまでは、ポカイアに戻るまいと誓ったのである。しかしいよいよキュルノスに向かうことになると、市民の半数以上のものは、祖国や住みなれた場所を慕わしくまたいたわしく思う心に耐えかねて、誓いを破りポカイアへ船を返していった。そして誓いを守ったものだけが、オイヌッサイから出帆し船を進めたのである。」(巻一 165)

「一行はキュルノスへ着くと、彼らより先に移住していた者たちと一緒にこの地に五年間住み、聖所も建てた。しかし彼らは近隣に住む者たちに対し手当たり次第に掠奪を働いたので、テュルセノイ人(エトルスキ人)とカルケドン人(カルタゴ人)とが協同して、それぞれ六十隻の船をもってポカイア人を攻めたのである。ポカイア人も六十隻の船に兵員をみたし、いわゆるサルディニア海へ出動し迎え撃ったが、海戦を交えた結果ポカイア人の得たものは世にいう「カドメイアの勝利」で、船四十隻も船首の衝角がへし曲げられて用をなさなくなった。そこでポカイア人はアラリアへ帰航すると、妻子のほか船に積める限りの家財をまとめ、アラリアを捨ててレギオンへ向かったのである。」(巻一 166)

「……ポカイア人の一部はこのような最期を遂げたが、一方レギオンに逃れたものは、この地を根拠にして、オイノトリア地方に今日ヒュエレ(後のエレア)と呼ばれる町を作った。この町を建てた理由は、あるポセイドニア(パエストゥム、いわゆるペストゥム)人から、デルポイの巫女が彼らに「キュルノスを建てよ」と託宣を下したそのキュルノスとは、島のキュルノス(コルシカ)ではなく、英雄キュルノスのことであったのだと教えられたからであった。イオニアの町ポカイアのたどった運命は以上のとおりであった。」(巻一 167)

「隷属に甘んずることを潔しとせず祖国を離れたのは、右の二つの町(ポカイアとテオス)だけで、残りのイオニア人はミレトスを除き、みな離国組と同様にハルパゴスと戦い、いずれも救国の戦いに武勇を輝かしたが、結局戦い敗れ占領されて、それぞれ祖国に留まり、ペルシアの命に服することになったのである。ミレトスだけは前にも述べたように、直接キュロスと協定を結んでいたので戦火を免れていた。」(巻一 169)

 

モナドと予定調和

ライプニッツに真っ向から取り組む前に、彼の説いた「モナドと予定調和」という考えについて暫し夢想してみる。

ライプニッツ(1646~1716)はジョン・ロック(1632~1704)と同時代の人。ということはスピノザ(1632~1677)とも同時代。カント(1724~1804)は少し後の人だね。

モナドというのが何をモデルにしてるのかは諸説あるのかも知れないけれど試みに「個々の人間=個人」だと考えてみたい。例えば生物を構成している個々の細胞だと考えることも可能だとは思うけど今はそう考えない。ライプニッツが政治家だったということもあるし。

そうした「モナド=個人」が未来に向けて合意的な和合へ向かうのが「予定調和」だと考えてみる。生物の細胞だったら未来でなく現在進行形で調和してるわけだから「予定」調和でなく「現在」調和だし。

ライプニッツの「予定調和」という考えは時代的な背景としてフランスのルイ14世侵略戦争による領土拡大を行っていたことやロシアのピョートル1世がツァーリズムを行っていたことにあると思う。

そして酒井潔先生の論文「ライプニッツにおける「慈愛」(caritas)の概念」にあるが如くライプニッツには愛の観念があったらしい。

だから現代の言葉でいえば「落とし処」というか、他国との合意に基づく共生を志向していたのが「モナドと予定調和」という考えではないかと考えた。

これは同じ時代に政治的な対象を思索したジョン・ロックと比較して考えるべきものかも知れない。あるいはスピノザにも『国家論』という著書がある。

だからフランスやロシアに対するドイツの独立した主権ということを考えるにあたり「モナド」という観点は必然的だったのではないかと考えた。まあ、そうすると「モナド」は個人ではなく「個々の国家」ということになるのかも知れないが…。

その根幹に来るのはやはり「人間の活動」としての「仲良くやりたい、共生したい」といった「欲求」で、そうした心理・情動に導かれた活動という意味ではやはり「生体内の細胞」とは違うイメージだということになる。

そしてライプニッツが生きたのは神聖ローマ帝国◯◯選帝候領…。ウィキペディアによると選帝候というのは

 

 

つづく

 

正・反・合

私のように正式に哲学を学んだわけでもない素人学問でも哲学の「テーゼ、アンチテーゼ、ジンテーゼ」という言葉は十代の頃から知っている。

だが、最近あらためて「ヘーゲル弁証法は正反合ではない。ヘーゲルは正反合と言ってない。」という話を耳にした。

これは何年前か十何年前かにも聞いた話で確か山口誠一先生が「日本でヘーゲル弁証法が正反合だと言われるようになったのはフェノロサ東京大学で行った授業で正反合だと語っていたからだと阪谷芳郎のノートから判明した」みたいなことを書いていた気がする(うろ覚え)。

それで加藤尚武先生なんかもコトバンクの「正・反・合」で「正反合というのはフィヒテの概念でヘーゲルは違う」みたいなこと書いている。

私は生意気にも加藤先生の説明は何か変だと感じるので少し考えてみたい。

確かヘーゲル弁証法って「止揚」というのとセットみたいになっていて、止揚というのは例えば「花が散って果実が残るようなもの」だと語られていたような気がする(うろ覚え)。

そこで「花」というのはどういうものかと言えば「生殖器」で雌しべと雄しべで構成されていて、あるいは雌花と雄花に分かれてるのもあるだろう。花があって受粉するから被子植物には果実・種が出来て種の保存がなされ絶滅が回避される。

だから時として「花より団子」という「華美と実利」と対立し対比した関係として同列で比較・選択される事柄も「花(美しさ)があったから団子が手に入った」と時系列・過程で理解するのがヘーゲル弁証法の一面と言えるのだろうか?

「見映え」と「実益」という一面的には相反するものだと把握されもする概念・対象を「一方があったから他方が成立した」「次の段階に進めた」という「相関関係」というか「相互依存」「対立物」「自他の関係」を把握するのもヘーゲル弁証法ではなかろうか?

それは時として形式的には「自由と不自由」という対立した関係・概念、テーゼとアンチテーゼとを「成人の自由へ向けての未成年者の不自由、成人は飲酒喫煙が許されるが未成年者は禁じられる」という過程的・時間的なジンテーゼで総合するのもヘーゲル弁証法の「正反合」の面だと述べたならば言い過ぎであろうか?

その時の「止揚」というのは「他者から禁じられる」という形が消え失せても「自らを禁じ律する」という形で次の段階に螺旋的に上昇しているという「教育学的」な観点で理解できるものなのかも知れない。

 

だから「花の命は短くて、苦しきことのみ多かりし」とは言うものの、花のように美しき時代があったからこそ……何となく危険な論理に進みそうだから止めておくが、

 

 

つづく(書きかけ)

ギリシャ哲学の歴史学

古代ギリシアの哲学思想を当時の社会状況に即した情動に根拠を求めたいとの欲求を実現するため歴史学者の師尾晶子先生のお知恵を拝借した。

師尾先生のアルカイック期僣主制の時期を考察した歴史学の論文から、ミレトス派タレスやエレア派のパルメニデスの思索がギリシアペルシャとの政治的関係に対応させられるように思われ…

パルメニデスが生きたイタリア半島のエレアという都市はそもそもがアナトリア半島にあったポカイア(Phocaea)からペルシャ帝国のキュロス大王の支配を嫌い逃れてBC540年に建設したものらしいと理解できたし、タレスの智恵をキュロスが認めたという話も聞けた。

そして、当時のギリシア世界を支配した僣主たちはペルシアの傀儡として活動していたとの情報からパルメニデスの「同一律排中律」といったものは「ポカイア人(ギリシア人)なのか?ペルシア人なのか?」といったナショナリズムというか民族性を問うていく思考に由来するのではないか?との仮説が生じてきたし、タレスの「アルケーは水」というのもペルシア帝国の中枢にあったチグリス川・ユーフラテス川やエジプトのナイル川が帝国繁栄の最根底にあることを認識してのものではないか?との仮説に繋がってきた。

敢えて対立的な図式にするとタレス(ミレトス派)とパルメニデス(エレア派)との思想の違いは「親ペルシア(親キュロス大王)」と「反ペルシア(反キュロス大王)」という情動の違いから生じてきたものだと理解することも出来るかも知れない。それは一方でタレスの「アルケー(始まり)は水」→「生きるためには仕方ないやろ」というペルシア属国を容認する?思想に対するパルメニデスの「ギリシア人(ポカイア人)でありながらもペルシア人でもあるなんて傀儡の中立的立場なんか許されへんやろ」という情動に導かれて同一律排中律の考えに繋がって行ったものであり、李香蘭山崎豊子のような「二つの祖国」なんざ認めへんとの空間的時間的な観念やったかもしらへん。

そう考えてみるとパルメニデスが祖だとも言われる「論理学的思考」というのも何や絶対的なものやない気が増してくる。絶対的・普遍的というよりも、そうした考え方が生じ適合する特定の事象・事例があったのだと思われるところだ。

そうすると、アリストテレスのように「タレスのような前ソクラテス思考は自然哲学なのだ」などとは断定できなくなってしまうが、それも本格的に調査してみないことにはハッキリしたことは言えない。

とにかく、この件はヘロドトスの『歴史』やパウサニアスの『ギリシア案内記』、プリニウスの『博物誌』は読んでおかなければならないようだ。

そしてA.D.ゴッドリーやリチャード・スティルウェル他の古典研究者たちの論文も…

コギトとモナド

昨日はエズラ・F・ヴォーゲルの『トウ小平』を読んでいた。(この登におおざとの漢字が出ないのは悩ましいが…)

f:id:jinsei-tetsugaku:20190124104414j:image

というのも最近『評伝 小室直樹』という本を買ったのだ。著者の方とは多少のご縁があったので買ってみようとアマゾンで検索してみたら定価の8割増しぐらいの高値がついていた。それで問い合わせたら出版社には在庫がないという。「発刊されて3ヶ月で在庫切れなんて凄い人気」だと仕方なくアマゾンで安く出品されているのを落札した。

まあ、その後、都心の書店を回ってみて本屋にはまだ在庫のあるところがあったから「やはりネットの情報だけで判断していると実際の街の様子を誤って判断することもあるんだな」と思ったが、その『評伝 小室直樹』に掲載されている小室直樹氏の著作目録をどこから読んで行こうか?と思案したときに著者が特に印象に残っているらしい『田中角栄の呪い』か『ソビエト帝国の崩壊』か、だなと考え…

それでソ連の崩壊を10年も前に予言したのは小室直樹氏だけとの評に興味を覚え、というのも小室氏はソ連とともに中国の崩壊をも本で予言してたわけだから。

小室博士の予言の中身を深く検討していく前に「当時のソ連共産党書記長がゴルバチョフでなくトウ小平だったなら中国が現在も崩壊せずに存続しているのと同様にソ連もいまだに存続していたかも知れないな。小室氏が1980年に崩壊を予測したブレジネフのソ連は、その後、ゴルバチョフペレストロイカやグラースノスチを打ち出して民主化を進めようとしていったから、言わばブレジネフのソ連のままでなくアメリカ化・フランス化していったとも理解できる。そこは、まあ、弁証法の相互浸透だと理解することも可能ではあると思ったが、しかしその民主化ソビエト連邦の崩壊に繋がったことは否定できないと思われた。民主化なくして国民投票など有り得ない。

だが、もしも当時のソ連共産党書記長がゴルバチョフでなくトウ小平だったなら、市場経済を導入しながらも共産党一党独裁という統治形態を崩すことなく天安門事件を武力鎮圧した如くに連邦内国家の国民投票など踏み潰したかも知れない。」

などと考えて、そうした事件についての判断は自由主義vs社会主義とか西欧vs東欧といった図式で考えるのでなく国家の最高権力者・最高指導者が誰なのか?という「個人」という次元まで判断の基準を細かくする必要があるだろうな、と思った次第で。

そうした私の「社会主義に対して民主主義」だとか「ゴルバチョフに対してトウ小平」だとかをカウンター的に合わせていく10代から習慣となっているイワユル弁証法的な考え自体も考察の対象にはなるわけだが、そんな流れからヴォーゲルの『トウ小平』を読んでいるわけだ。それはやがて「小室直樹氏の予言の妥当性」というところに私を導いてもいくだろうが…。

そんなおり、東洋文化研究所で開かれた日本哲学のイベントで良い話を色々と聞いた。

中でも故・坂部恵さんが「カントが100年単位の天才だとしたらライプニッツは千年単位の天才」だと語っていたという話が印象に残った。帰宅して調べたら『ヨーロッパ精神史入門』という本で加藤尚武先生がこのタイトルで論文を書いている。

そこからライプニッツにも興味が湧いてきて、何しろライプニッツはそもそもが政治家だったというし、彼の「モナド」というのもデカルトの「コギト」に通じて哲学原理における「個」の重要性を扱っているのではないか?と想像を膨らませ。

この問題は時間をかけて追って行きたい。

 

つづく

これから読みたい本、論文

●師尾晶子(千葉商科大学)「古代ギリシアにおける「他者」の発見と「他者」との境界をめぐる言説の展開」

●丸山恭司(広島大学)「教育において<他者>とは何か~ヘーゲルウィトゲンシュタインの対比から」

●小林正士(国士舘大学)「ヘーゲルの社会哲学と市民法原理」広義の国家と狭義の国家

●金成垣(東京大学)『後発福祉国家論~比較のなかの韓国と東アジア』相互浸透

●粕谷祐子(慶應義塾大学)『比較政治学

●ガブリエル・アーモンド『比較政治学

●田中道昭(立教大学)『アマゾンが描く2022年の世界』アマゾンとアリババ、EC=電子商取引アメリカと中国

●『ジャック・マー アリババの経営哲学』

●『ジェフ・ベゾス ライバルを潰す仕事術』

●遠藤誉『「中国製造2025」の衝撃 習近平はいま何を目論んでいるのか』

●遠藤誉「Huaweiの任正非とアリババの馬雲の運命:中共一党支配下で生き残る術は?」

 

東洋医学と東洋思想

頼んでおいた藪内清さんの『中国古代の科学』(1964年)が届けられた。
f:id:jinsei-tetsugaku:20190113090242j:image

とても示唆に富んだ魅力的な知見が綴られている。

いくつかピックアップしてみると

 

①「近代科学の開幕は十六世紀のヨーロッパからはじまっていて、十九世紀の後半から科学と技術とが密接なつながりをもつようになり、たがいに因ともなり果ともなって、科学と技術は加速度的な発達をとげて現在にいたったのである。……十五世紀以前のヨーロッパと中国との科学技術を比較するならば、両者のへだたりはほとんどなく、かえってヨーロッパは中国からの恩恵をかずかず受けてきたのである。ヨーロッパの新しい誕生が、イスラム世界からの遺産によることが多かったことは、すでに多くの西洋の学者によって注意されてきた。ところが中国の科学技術が世界の文明に果たしてきた役割については、西洋の学者はもちろん、中国に隣りあって、しかも過去に中国文明の恩恵をふんだんに受けてきたわれわれ日本人さえも、正当に評価しようとしない。中国人の才能は科学や技術にむかないという放言が行われたのも、わずか二〇年前の日本人の口からであった。」

②「今次の大戦後に成立した新中国は、共産陣営にあってソビエットと対立する二大強国となった。もはや世界の人々は新中国を無視することができなくなった。科学の面でも中国人学者のなかからノーベル物理学賞の受賞者が生まれており、今後における世界の科学技術に対する中国人の貢献はじゅうぶんに期待できる。」

③「過去における中国の科学技術の発展は、また世界全体の科学技術史の展開に大きく貢献したことを忘れてはならない。過去の中国人は、けっして恵まれた環境にあったといえないが、ほとんど独力ですばらしい科学と技術を育て、それを基礎にした文明をきずいてきたのである。こうした科学と技術の展開は、また中国史自体の研究にも欠くことができない。」

④「新石器時代から金石併用時代にかけては、他の古代文明と同じように、中国もやはり原始社会の後期にあり、氏族を単位とする共同社会であったらしい。農耕は行われていたが、その収穫は成員のあいだに分配され、余剰の蓄積とてほとんどなかった。ところが殷の時代になって青銅器による優秀な武器が登場してくると、原始共同体は崩壊し、かなり広い地域を支配する国家が誕生することとなった。この国家では、征服した多数の他部族を奴隷とし、これらを使役して生産に従事させた。いわゆる奴隷制国家の誕生である。」

 

②と④から私には連想されたことがある。それはこの本が出版された1964年という年代とも関係するのだが、1956年にソ連スターリン批判がなされ1972年に日中国交正常化が声明される間の時代だということで、著者である藪内さんはマルクス主義者、それもソ連スターリン主義よりも中国の毛沢東主義に近かったのかも知れないという連想だ。正に「時代の学問」というか、そうした中国共産主義への応援・肩入れの情動・政治性がヨーロッパに対して中国の科学文明が優るとも劣らなかったということを明らかにせんとの学的信念に繋がって行ったのではなかろうか?という一人の科学史家に対する心理学的な関心である。

だが、この本には興味深い宝の知見がまだまだ山ほど発掘できるが、例えば「中国の医学」の章にある

 

⑤「扁鵲の時代には病気は五臓の気の不調和から起こると考えられた。五臓とは肝、心、脾、肺、腎臓であり、これに対し胆、胃、大腸、小腸、膀胱、三焦を六腑と称する。……気に病むことが病気であるというのは、古い中国の生理思想から生まれたものにちがいないが、さてこの気が何であるかというと、現代の学術用語には見あたらない。西洋の古代医学のプノイマということばは、ほぼ中国の気にあたっていたように思われる。かんたんに言うと、気は二元論の立場から生まれたことばであって、物質と対立する概念である。」

⑥「経絡という用語はすでに『扁鵲伝』にも出ているが、これは動脈や静脈ともちがい、現在の医学ではそのままでは実在しない。ところが経絡上の部位に施術を行うと、かなりいちじるしい効果があることは疑えないのであって、完全に一致するわけではないが、経絡は部分的に現在の交感神経系統にあたるものと考えられる。中国の医学ではもちろん神経という思想はないが、鍼灸は交感神経を刺激して治療する方法であり、中国人は長い経験のあと、どの点を刺激すれば最も効果的であるかを知ったのである。」

 

鍼灸治療は交感神経を刺激する方法である」という知見が非常に興味を惹かれるものである。

ところでインターネット上で面白いブログを綴っている従心の老婆が腎臓結石で入院したとの情報が入った。何でも腎臓結石から腎盂炎になったのだそうだ。

それに対して鍼灸師を自称する常連のコメンテーターが「退院したなら脛の胃経を整圧しなさい。灸でも良いです。」と書き込んでいたのに初心者の私は興味を覚えた。

「どうして腎臓結石の腎盂炎で胃経なのだ?」と。腎臓なのだから泌尿器であるし腎経や膀胱経ではないのだろうか?と。また、腎臓結石や腎盂炎の特効穴だと聞く「京門」ではないのだろうか?と。

鍼灸治療の配穴は治療家によって個性があるとも聞くから腎盂炎に対して胃経の脛という判断にも何らかの根拠があるのかも知れないが、「腎臓結石で腎盂炎なのだから腎経や膀胱経!」のほうが解りやすいといえば解りやすい。最も「腎臓結石だとか腎盂炎の特効穴」だという「京門」は腎経でも膀胱経でも無く「胆経」であり「胆」というのを「胆臓」だとしたならば「消化器系」ということになるが「京門」は腎盂炎の他にも生殖器に効果的だという話だから複雑ではある。

最も、仮に想定してその従心の老婆と自称鍼灸師が実際に面会していて腎臓の障害から下腿が浮腫んでいるのを見た自称氏が「脛への手技を」ということで「胃経の脛」なんてことを書いたのだとしたならば、そこで必要な知見は胃経などという経絡的なことではなく浮腫を除去するためのリンパへの手技だったかも知れないが、飽くまでも私の仮想の話でしかない。

そこから連想を繋げてみたのが安冨歩先生の「孔子老子に関する講義」で知った『老子』の「道可道也  非恒道也  名可名也  非恒名也」で、わたしの勝手な解釈だと「非恒道也」の「恒」というのは儒教の「五恒(常)=仁、義、礼、智、信」でこれが「恒(常)=絶対」じゃないのだと言ってるのだと考えた。つまり「道可道也  非恒道也」というのは「道というのは歩ける道を言うのであり、それは恒ならざる道なのだ」ということで例えば主君から「死ね、腹を切れ」と言われても「上意下達」ということを絶対視し恒とすることなく「それは出来ない」と断って構わないという思想なのだと思ったし、その「道」というのは現代の日本語でいう「人道的」だとか「道義的」という意味内容と同じであるように思えた。

そして「名可名也」の「名」というのは「名家」の「名」で、だからやっぱり諸子百家の思想だと思うわけだが、例えば公孫竜の「白馬非馬」みたいな「<白馬>と<馬>は違う名前(言葉)なのだから違うものだと扱いなさい」なんてのも「そんなことは出来ない」と断って構わないという思想だと考えた。違う名前(言葉)だからといって絶対的に違う対象だなんてことは恒(常)ならずと言ってるのだろうと考えたわけだ。

だから日本の戦国時代に主君から「死ね、自害を申しつける」と言われて素直に従ったとか第二次大戦で天皇陛下の詔として特攻していった神風兵士は孔子的(儒教的)ではあったが老子的(道教的)ではなかったと言えるのかも知れない。

孔子的な命令規範を拒絶する老子的な発想は「死なせてはならない!」との思想を背景にしているわけだからヨーロッパ的な「自由の思想」とは完全には合致しないかも知れないが基本的人権とは重なっていくものだと考える。「東洋的自由の思想」と呼んでいいものかも分からない。

孔子的な思想と均衡を保つような老子的な観念が老獪だとか老猾と重用されるのか、それとも老害と排他されるのかは状況次第かも知れない。「死ね!」という他者の意図に「非可道也」と従わなかったがゆえに老子は何百年も生きられたとの伝説が生まれたのではなかろうか?

そうした「恒(常)ならず」との老荘思想に繋がって行く面で捉えることの出来るのが「腎(泌尿器)疾患に胆(消化器)の反射点を用いる」という中医の方法だろうか?などと広げてみた次第なのだが……。「胆と名がついているからといって胆臓系だとか消化器系だとは限らない、恒(常)ならず!」とか、ね。

安冨歩先生の講義録では今、マイケル・ピュエットの『ハーバードの人生が変わる東洋哲学』という本が凄く売れていてハーバード大学では東洋思想の講義が凄く人気なのだと言っていた。

私の考察もいつの日かハーバードに繋がっていく日が来るのかも知れない…