コギトとモナド

昨日はエズラ・F・ヴォーゲルの『トウ小平』を読んでいた。(この登におおざとの漢字が出ないのは悩ましいが…)

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というのも最近『評伝 小室直樹』という本を買ったのだ。著者の方とは多少のご縁があったので買ってみようとアマゾンで検索してみたら定価の8割増しぐらいの高値がついていた。それで問い合わせたら出版社には在庫がないという。「発刊されて3ヶ月で在庫切れなんて凄い人気」だと仕方なくアマゾンで安く出品されているのを落札した。

まあ、その後、都心の書店を回ってみて本屋にはまだ在庫のあるところがあったから「やはりネットの情報だけで判断していると実際の街の様子を誤って判断することもあるんだな」と思ったが、その『評伝 小室直樹』に掲載されている小室直樹氏の著作目録をどこから読んで行こうか?と思案したときに著者が特に印象に残っているらしい『田中角栄の呪い』か『ソビエト帝国の崩壊』か、だなと考え…

それでソ連の崩壊を10年も前に予言したのは小室直樹氏だけとの評に興味を覚え、というのも小室氏はソ連とともに中国の崩壊をも本で予言してたわけだから。

小室博士の予言の中身を深く検討していく前に「当時のソ連共産党書記長がゴルバチョフでなくトウ小平だったなら中国が現在も崩壊せずに存続しているのと同様にソ連もいまだに存続していたかも知れないな。小室氏が1980年に崩壊を予測したブレジネフのソ連は、その後、ゴルバチョフペレストロイカやグラースノスチを打ち出して民主化を進めようとしていったから、言わばブレジネフのソ連のままでなくアメリカ化・フランス化していったとも理解できる。そこは、まあ、弁証法の相互浸透だと理解することも可能ではあると思ったが、しかしその民主化ソビエト連邦の崩壊に繋がったことは否定できないと思われた。民主化なくして国民投票など有り得ない。

だが、もしも当時のソ連共産党書記長がゴルバチョフでなくトウ小平だったなら、市場経済を導入しながらも共産党一党独裁という統治形態を崩すことなく天安門事件を武力鎮圧した如くに連邦内国家の国民投票など踏み潰したかも知れない。」

などと考えて、そうした事件についての判断は自由主義vs社会主義とか西欧vs東欧といった図式で考えるのでなく国家の最高権力者・最高指導者が誰なのか?という「個人」という次元まで判断の基準を細かくする必要があるだろうな、と思った次第で。

そうした私の「社会主義に対して民主主義」だとか「ゴルバチョフに対してトウ小平」だとかをカウンター的に合わせていく10代から習慣となっているイワユル弁証法的な考え自体も考察の対象にはなるわけだが、そんな流れからヴォーゲルの『トウ小平』を読んでいるわけだ。それはやがて「小室直樹氏の予言の妥当性」というところに私を導いてもいくだろうが…。

そんなおり、東洋文化研究所で開かれた日本哲学のイベントで良い話を色々と聞いた。

中でも故・坂部恵さんが「カントが100年単位の天才だとしたらライプニッツは千年単位の天才」だと語っていたという話が印象に残った。帰宅して調べたら『ヨーロッパ精神史入門』という本で加藤尚武先生がこのタイトルで論文を書いている。

そこからライプニッツにも興味が湧いてきて、何しろライプニッツはそもそもが政治家だったというし、彼の「モナド」というのもデカルトの「コギト」に通じて哲学原理における「個」の重要性を扱っているのではないか?と想像を膨らませ。

この問題は時間をかけて追って行きたい。

 

つづく