東洋思想

昨年、北京で開催された世界哲学会議のパンフレットを見ると開催国である中国の歴史に残る思想家たちの肖像画が並んでいる。

孔子(Confucius)、老子(Lao Tze)、孟子(Mencius)、荘子(Chuang Tze)、王弼(Wang Bi)、慧能(Hui-Neng)、朱熹(Chu Hsi)、王陽明(Wang Yang-Ming)…

今、古代東洋の思想家たちの再評価が哲学の世界でも行われているようなのだが、その一翼を担っているのが昨今の心の哲学の研究成果なのかも知れない。

私も日本で生まれ育った日本人として、日本の歴史を築いてきた日本人の思想というものは知っておきたいと考えるが、日本人の思想というと「やまとごころとからごころ」と言うが如くに日本・朝鮮・中国という例の「東アジア」という広い領域での思想的な営みを無視することは出来ないようだ。

尊敬する初代タイガーマスクの佐山先生は日本人の心の財産としての陽明学復権させるべく今年から本格的に活動されるようだが、佐山先生が時々おっしゃる「格物窮理」というのは私なりに解釈させていただくならば日本刀に等級があることを悟ることのようなものだと考える。

それは基本的には四書五経儒教の考えなのだと思うから、朱熹王陽明とで微妙に解釈が違ったとしても、本質的には中国の、そして東洋の思想に違いはない。

格物致知」とは私なりの解釈では「物には格の違いがあることを知るに至る」ことであり、「格物窮理」とは「物の格の違いがどこから生じるのかの理(ことわり)を明らかにすること」だと考える。

そうした東アジアに広く行き渡る「物の格の違い」「品質」への認識が技を極めて良い質の製品を生み出さんとした日本人や朝鮮人、中国人らの勤勉で目の肥えた日常に繋がったのではないか…?

それが食事の食べ方から歩き方までを「斯くあるべし」と作法化し、「品位」なる認識で捉えようとする日本人の歴史的な思考かも知れない。

そもそもが「品(ひん)がある」って何だ?というわけで「品」って「品物」ですよ。「物」ですから存在してれば物(もの)であり品(しな)なわけですが、その物に格というグレードの違いを見るわけで、言ってみれば「何でも鑑定団」の鑑定士のような「目利き」「鑑定眼」が必要とされるということ。

だから朱熹の「性即理」に対する陸象山の「心即理」は主唱者の現実に生きた立場から経験的に理解すべきものだと考える。

恐らくこのことは、例えば現代でいったら「難病奇病は患者数が少ないから費用を回収出来ないという理由から研究開発が進まない」という現実は朱子学的には真理であるのだろうけれども、そこに「それで良いのか?」ということを人道的な感情・心の問題として取り上げていくのが陽明学的なのではないか?と考えた。

そこから「知行合一」として何らかの資金捻出に奔走せんと活動するのが「現代の武士道」「陽明学の現代的な活用」となるのだろうか…?

陸象山や王陽明の思想はデカルトの「ゴギト・エルゴ・スム」や西洋の実践哲学に何ら劣るものではないかも知れない。

そうした東アジアで育まれた高い文化性を持ち合わせていたがゆえに、日本人は幕末から明治維新の文明開化において欧米文化を吸収できたのかも知れない。

良く話題とされるヘーゲルがアジアを低くみて蔑視していたことは、ヘーゲルの思想の根元が宗教、それもキリスト教への賛歌であることから理解されるようにも思えた。

ヘーゲルが生きた時代、中国の支配王朝は清であり、ヘーゲルが生まれる前に「典礼問題」でキリスト教の布教活動を中国の慣習・文化を受け入れる形で推し進めたイエズス会の活動を時のローマ教皇クレメンス11世が禁止したという事件があったからだ。

このキリスト教と中国文化(中国思想)との共生に反対したイエズス会以外のキリスト教会派の根底には出し抜いて信者を増やしたイエズス会への「嫉妬」があったように思える。

正に「心即理」であり「致良知」である。

主催国である中国が用意した2018年の世界哲学会議の大きなテーマは「学以成人」=「Learning to be Human」、中国思想において、そして東アジアの私たち日本人にとっても「道(みち)」というのは「人間になっていく過程」を表す言葉であったようだ…

 

つづく