ロラン・バルト

ロラン・バルトの『神話作用』が届く。
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この中に収められている「レッスルする世界」が発表されたのは1954年らしいのだが、ここでバルトが想定している1950年代のフランスのプロレスが私には先ずもってイメージできない。

ネットでフランス人プロレスラーを検索してもエドワード・カーペンティアのようなフランス国籍を持ちつつもアメリカで活躍したようなレスラーしか見つからない。

だが、バルトの書き方から想像するにベビーフェイスとヒールとがハッキリと区別され、散々反則をしたヒールが最後にはベビーフェイスにこてんぱんにやり込められる見世物、といったものだったようだ。

そこに演じられるのは「正義と悪」といった「道徳的な図式」で、バルトはそれを「フランスのプロレスの特徴」だと理解しているらしく「アメリカのプロレスは自由主義vs共産主義のような政治的図式」だと述べてもいる。

私のように日本のプロレス、特にタイガーマスクや藤波vs長州といった試合を見て育った世代には「正義と悪のプロレス」と言われても中々にピンとこない。敢えて連想しようとするならばザ・シークやタイガー・ジェット・シンアブドーラ・ザ・ブッチャーが凶器を使った反則の限りを尽くした挙げ句にザ・ファンクスや猪木らに撃退され客が溜飲を下げる、といった図だろうか?

それはともかく、そうした「悪を懲らしめるヒーロー」といった見世物を柔道やボクシングから区別されるプロレスの特徴だと考えているバルトの見解は一理あるとして、ともかくバルトが言うところの「当時わたしは、フランスの日常生活のいくつかの神話について、規則的に考察しようと試みていた。」ということ、「レスラーは意味記号を順次に凝固することによって公衆が彼に期待していることを、徹底的に完成する」というあたりに興味を覚えた。

この辺りが『現代フランス思想とは何か』でJGメルキオールが説いている「構造主義的批評の科学主義」なのかも知れないと思い始めた。
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構造主義的批評の科学主義を(かなり短期間だったにせよ)最初に体現し、その後最大の努力をしてその科学主義を縮減したのは、ロラン・バルトだった。…(中略)…かれが有名な試論のなかで述べたように、「構造主義の活動は、対象の機能のはたらきの諸規則が明らかになるように、対象を『再構成する』こと」を目的としていた。ここでわたしたちは、バルトにおいて、不変なものを求める探究を再認する。すなわち、言語学からの教訓と、人類学に関するレヴィ=ストロースのプログラムからの教訓とを再認するのである。しかし、1971年の『テル・ケル』誌のインタヴューで、バルトは、構造主義記号論における自分自身の以前の努力を、束の間の「科学性の夢」として批評した。そのころまでに、かれは、「テクストの快楽」を熱心に求め、そして、文学記号への応答において何ものにも縛られていない主観性の諸権利を熱心に求めるようになっていた。」

これも実に興味深いところだ。嘗て構造主義記号論を盛んに唱えていた武道学者の先生が後に「フリー」を唱えるようになった事例をも連想する。

敢えてマルクス的な唯物史観で見るならば、このバルトの「プロレスにおける正義と悪の規則性」は上部構造における規則性であって、下部構造の経済活動如何によっていくらでも変化し得るものかも知れない。

それが「掟やぶりの下剋上」…?あるいは反則しながらベルトを巻いているダーティ・チャンプの…?要は客に受けるか否か、客が支持するか否か、の

 

つづく