土井正興さんのヘーゲル評

土井さんの『スパルタクス反乱論序説』も取り寄せた。
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ネットに触れられていたとおり、ここに土井さんがヘーゲルについて詳述している。「第一章 歴史におけるスパルタクス、四 資本主義の成長とスパルタクス像の分裂」でのことだ。

 

「哲学者ヘーゲルは、当時のドイツの市民階級の自由を求める動きと、それを阻止しようとする封建的な勢力の動きをかなり正確に彼の哲学体系のなかに反映した。若い頃、フランス革命に感激したヘーゲルは、世界史の発展の大局的な方向をその脳裡に反映せざるを得なかった。彼が、歴史を人類の自由への動きと理解し、それが弁証法的に発展すると理解したのはそのためであった。しかし、同時に、現実のドイツの「みじめさ」を反映して、人類の最高段階である自由は、国家=プロイセン国家によって実現され、市民社会はそれに至る過渡的段階だと考えた。その『法の哲学』において、ヘーゲルは成長しつつあった資本主義社会の矛盾を鋭く指摘し、それは利己心にもとづく欲望の体系であるが故に、そこから財産の蓄積と大衆の貧困という矛盾が発生するとした。そして、その市民社会が、結局、封建的絶対主義的なプロイセン専制権力によって克服されると考えたのは、当時のドイツにおいて市民階級がまだ未成熟であったという事態に対応しながら、プロイセン専制権力がその支配を維持しつつ、「上からの」近代化のコースを設定しつつあったことの観念的な反映であった。

アジア社会を出発点として、ギリシア世界、ローマ世界、ゲルマン世界をへて、終点のプロイセン国家に到達するヘーゲルの世界史の構想は、モンテスキュー以来の進歩的ヨーロッパにたいする停滞的アジアという考えを定着させたものであり、アジアのヨーロッパへの従属がその必然的運命であると考えた当時のヨーロッパのブルジョアジーの世界観とその世界観の基礎となった資本主義的ヨーロッパへのアジア・アフリカの従属化の進行に対応するものであった。このような世界史の全体的な構想のなかで、ヘーゲルギリシア・ローマの把握がなされてくるのである。ヘーゲルが、ドイツの古代研究の土壌の上に立って、世界史の青年期にあたる若々しいギリシア精神をドイツ精神の根源と考えたことは当然であったが、さらに青年期の悪を知らぬギリシア精神の政治的形態として民主政体がもっとも適合的であったとし、古代民主政を賛美すると同時に、その民主政にとって奴隷制がかくべからざる条件であることを指摘した。しかし、ヘーゲルにとっては、古代民主政の賛美と専制君主アレクサンドロスの賛美とは矛盾するものではなかった。つまり、ヘーゲルが賛美したのは若々しいギリシア精神の顕現形態としての民主政であったのであるから、そういう観点からいえば、「最も自由な、最も美しい」個性としてのアレクサンドロスは、ギリシア精神の体現者であり、成熟した青春の生活の先頭に立ってアジアにたいする報復をなしとげたとするのである。このようなアレクサンドロスの把握も、「青春期」のヨーロッパの資本主義の世界進出という現実に対応するその「古代」版的把握ということができるであろう。

  たしかに、ヘーゲルは、古代民主政を明確に奴隷制と関連させて把握していた。しかし、それは、古代民主政を擁護し、その奴隷支配を合法化する立場からなされていたのであった。だから、ヘーゲルは、ローマを政治的世界として描き、その目的を「冷酷一途に追求される」「世界統治の野望」としながらも、スパルタクスの「奴隷戦争」を、「混乱」と評価しているのである。そして「奴隷戦争」を「混乱」と評価することはフランス革命以前に、絶対主義批判のなかで、市民階級によってとらえられたスパルタクス像とは、全く異なったものといわざるを得ない。ここでは、グリルパルツェルの「恐怖」をより発展させて、支配体制に「混乱」をまきおこすものとしてのスパルタクスがとらえられているのである。これは、上からの「近代化」のコースをおしすすめつつあったプロイセン専制権力の「御用哲学」として、ヘーゲル哲学の反動的側面が、学生などの自由を求める動きを抑圧する理論的武器の役割を果たしたこととまさに即応するものであったといわねばならない。」

 

う~ん、これは非常に重要な指摘だと思う。20世紀の「社会主義専制国家」の現実は、マルクスエンゲルスを超えて、実はヘーゲルに理論的根源があったのかも知れない…レーニンはヘーゲルを実に重視したようだから…

 

つづく