詩、和歌、文学

先日、本郷の附属総合図書館のライブラリープラザで熊野純彦先生と菅原克也先生の対談があって聞きにいった。

お二人それぞれの講演にも引き込まれる魅力を感じ私も一つ質問させていただきもしたが、特に印象的だったのは熊野先生が引用していたランボオの『地獄の季節』の一節。

熊野先生が紹介されたときはランボオとも地獄の季節とも記載されておらず唯、小林秀雄訳とだけ書かれていたがネットで検索するとランボオのものだと直ぐに理解した。

それで所用で立ち寄った新宿御苑ブックオフランボオの『地獄の季節』と新古今和歌集を買ったのだが残念ながら小林秀雄の訳ではなく宇佐美斉さんの訳となった。

その『地獄の季節』の「錯乱Ⅱ」の一節

「おお 季節よ 城よ

    無疵な魂などどこにいよう」

これが強く心動かされる心境に、今の私はいるのだろう。そこからランボオヴェルレーヌとの関係やマラルメの作品への関心へと心は向かい、さらにはマルクスエンゲルスの詩作への興味にまで発展してきた。

きっと東京大学に進学した東大生たちも駒場での教養課程のなかで文理融合の未分化な教育を受けているに違いない。

菅原先生の『英語と日本語とのあいだ』も購入。菅原先生は『小説のしくみ』も面白そうだが、市販されていない科研費を使った研究報告書が「東アジアにおける文化交流」で面白そうだと調査した。ここから竹内整一先生の『やまと言葉で哲学する』に進んでいこうかと考えた。

 

*後日、赤門前の大山堂書店さんで小林秀雄訳の『地獄の季節』を購入。例の「錯乱Ⅱ」の箇所は

「ああ、季節よ、城よ、

    無疵なこころが何処にある。」

う~ん、私はやはり宇佐美さんの訳より小林秀雄の訳が好みだな。「無疵なこころ」、やはりそうだ!