命題:「青春は再び還らじ」か?「永遠の青春~青春を繰り返す」のか?

鍼灸学校への入学で再び「学」へ向かう機会を得ることが出来たが、誰もいない朝の教室で予習のために教科書に向き合っていると様々な想いが湧き上がってくる。

その根幹にあるのは「自分の時代の学校制度の肯定」という、◯◯学派の弁証法や「たった一つのテーゼ」「一義性」に還元しようという青年期の思考の経験を介して到達した「国語、算数、理科、社会、…etc. といった複数の専門科目を並行して学んで行って、やがてセンター試験のような形で大きく問われ試される」という未成年の頃の教養教育(リベラル・アーツ:ここで言うリベラルとは正に専制的で無いという学的構成をも指していると思われる。)の正統性、それこそが学問の極意なのだ!という想いである。

そうした複数の専門科目の並行した学びを算数だけだとか理科だけだとかにすることは当然に出来ない。

鍼灸の「学」を学び始めて感じたのは、例えば「東洋医学概論」や「経絡経穴概論」で必要とされるのは「国語の能力」だということだった。

もちろん、生理学や解剖学でも国語の能力は必要とされるが、それらの理科や算数的な内容に比べて東洋医学には特に強く国語の能力が要求されるように思われた。

というのも、それらは漢字や仮名という東アジアの中国、朝鮮と嘗ては共有していた文字文化で書かれているわけだが、臓腑論などを開くと肝の働きが「疏泄」だとか書かれている。漢字の意味から「疏泄」というのが「通して捨てる」ことを意味していることが分かるし、その機能不全が「気滞」だとか「鬱」といった「滞る、流れていない」「障害物が密集していて流れない、通らない」といったイメージが頭の中に浮かんでくるのだ。

それは実際に体の中で血液ドロドロのような流れない生理学的な活動があるや否やはともかくも、我々が客観世界から視覚的に認識し得る「流れない、滞る」負のイメージのアナロジーが言葉から繋がっていくイメージの連鎖として東洋医学にはあるように感じられた。

それと時空を異にした解剖学の授業での話の進み方に感じるところあり。

それは身に付けてしまった者には何故その指示対象にその言葉があてがわれているかなど知らなくとも構わないのであり、言うなれば「足立区」と聞けば自分が住んでいる街の景色を想起すれば良いのに対して全く未経験で初めての人間には世界地図で朝鮮半島の隣にある日本列島の位置からズームアップしていって東京都の一区域という方向に理解していかなければならぬのと似ているのかも知れない。

だから「組織学」といったなら基礎にあるのは細胞・組織・器官が分化してしまった個体の全体であり、個体の筋肉・神経・骨…といった区別された器官を構成している細胞の集まり、それも特定の機能をもった集まりだと個体(全体)から部分へと分析・分割していく方向に進んでいくのが理解への道ではなかろうか?

ところが「組織学」をやりますといって受精卵や胚の話に移るのは実は組織学ではなく発生学じゃないのか?とも感じた。発生学と組織学との学際的というか、そもそも胚に組織なんかあるのだろうか?と。

「発生学」と「組織学」の学的スタートが、前者が受精卵からの時系列的な変化を追っていくのに対して後者はご献体の要素分割である違いは等閑視できないように思われた。

そんな鍼灸学生が使う解剖学の本には「器官」という項目は無い。昔の教科書には有ったような記憶があるから何らかの理由で割愛されたようだ。その代わり皮膚に関して多くのページを割いている。

鍼灸には経絡治療という表皮にしか刺鍼しない治療法があるようだから、この解剖学の構成は「鍼灸学的解剖学」というか鍼灸のための専門的な解剖学の本を志向して作られたものかも知れない。

そんなことを考えたのも入学して早々の授業が社会学や心理学を専攻している先生の「フレームワーク」や「リテラシー」を問題視している話だったからかも知れない。