ヘーゲル学会2018年6月

ヘーゲル学会に足を運んだ。

今年は中央大学後楽園キャンパスだ。

私にとっては実に聴き応えのある発表ばかりで、学会が私のためにサービスしてくれているのではないかと錯覚してしまいそうなほどで。

その中でも、特に印象的だったのは大和さんの発表にあった『精神現象学』の「自己意識」章「A.主と奴」から「B.自己意識の自由」「1、ストア主義」「2、スケプシス主義」と展開していく件が一つ。

私がここで気づかされたのは、その前節の「承認」や「主と奴」では「承認の純粋概念」だとヘーゲルが説いている中身が、その後にストア主義やスケプシス主義へと展開していくあたりから、このヘーゲルが想定している=頭に思い浮かべている「主と奴」というのがヘレニズム~ローマ帝国にいたる歴史的な「支配←→被支配関係」なのだろうな、と想像できたことだ。

だから、ここでの「主と奴」とは、超時空的な一般的な「主と奴」ではなく、換言するならば17世紀から19世紀のアメリカにおける奴隷制の話ではなく、紀元前4世紀にアレキサンダー大王が小アジアやエジプトを征服したのに始まるヘレニズム→ローマ帝国における支配層と被支配層をハッキリと意識しての論述なのだと思われた。

都合で聴くことのできなかった、その日の学会の後半にあった岡本裕一朗さんのペーパーの言葉を借りるならば、「分析哲学の教育を受けたプラクマティズム的な理解に共通する、<歴史的な文脈から切り離して、一般的な観点からヘーゲル哲学を再構成しようと>」してはいけない❗ということかも知れない。

竹島先生の本の合評会で高田純先生のご専門が「承認論」だということを改めて知り、高田先生の『自由と承認』をアマゾンで発注。

高田先生と初めてお会いしたのは2011年にカント協会が開催された首都大学東京でだから、もう7年前になるが、やはり自分の中で関心の焦点が定まっていない頃には「承認論」と言われてもピンとこなかった。

精神現象学』の「承認のための生死を賭する戦い」なんかもヘレニズム~ローマ帝国の自由を求めた奴隷の反乱=スパルタクスなんかを想起するべきかと考えた。

そうすると、某空手家が「主体性の確立のために武道を学ぶべし」と説いていることは、歴史的な文脈を無視してヘーゲルの論法を現代に横滑りさせてるだけだと相手のレベルが推し量られた。

また、初期・滝村が国家成立として「征服」を過度に?重視したのも、ヘーゲルの自己が他者との関係において支配・被支配関係におかれ、やがて承認とともに自由となるという図式に導かれてかもしれないと考えた。しかし、それはアレキサンダー大王という歴史の途中からの過度の理念化だったのかも知れない。

川本さんのフォイエルバッハ論にも心惹かれ、少し散財しすぎだけど購入。


つづく